maturimokei’s blog

俺たち妄想族

ゴム手袋

 最近は手が荒れて困る。新型コロナウイルスの流行で、買い物をするたびにアルコール消毒をするからである。家に帰ると真っ先に手を洗って、アルコールを丁寧に洗い落とすのだが、もはや手遅れである。割れた指先はガサガサで、いつまで経っても元に戻らない。スマホも指紋認識をしてくれない。

 そこで考えた。ゴム手袋をして一日過ごそう。アルコールの洗礼を受けなくていいし、保湿もできる。良いアイデアだ。いつもなら、朝の洗い物を済ませば、ゴム手袋を裏返して乾かすのだが、今日からはつけっぱなしだ。

 いきなり感動した。私は、トイレの水に風呂の余り水を使っている。というのは、決してケチっているわけではなく、水1リットルの浄水に1ワットかかるとTOTOのHPに書いてあったからだ。大なら6〜8ワット使うわけだ。発生する浄水土からはメタンガスが出るとも厚生労働省のHPに載っている。地球環境保全大義の下、私は風呂水リユースを実行して3年が経つ。タンクの弁がコーンと閉まる号砲を合図に、水道水と競いながらペットボトルから注水を始める瞬間はまさにスポーツであるが、それはさておき、決してケチっているわけではない。繰り返し言うがケチっているのではない。はっきり言って水道代は減った。その風呂の水を入れる2リットルのペットボトルが楽々と持てるのだ。グリップ力が違う。畏るべし、ゴム手袋。

 感動はさらに続く。私は20年来、正確に言うと27年間欲しかったゴジラのラジコン模型をネットで手に入れた。時の流れは残酷なもので、動きが良くない。そこで修復を試みていたのだが、狭い場所の小さなメスネジがなかなか掴めなく、はまらなく、焦っていた。それが、いとも簡単に、締め付けられたのだ。ゴム手袋の抵抗のおかげで、掴まなくても軽く抑えて回すだけでどんどん締まるのだ。畏るべし、ゴム手袋。

 ところが、この摩擦抵抗も食事の時は邪魔になる。疲れる。箸の動きの重いこと。箸というのは、掴んでいるのではなく、滑らせているのだとわかった。ナイフ、フォークは掴むだけだ。この朝昼晩指先で滑らせるという行為が、日本人の器用さを生む一つの要素なのかもしれない。

 外に出るのは少し勇気が要った。でもそれは、自分が周囲から注目されていると考える自意識過剰さが生むものだと悟り、気を取り直し出かけた。財布が取れない。尻のポケットと財布の間に挟まれた手がびくともしない。後ろに並んでいる客とレジのお姉さんの目が気になる。しかしその後、感動した。他店を圧倒してあんなに開けにくかったコープの極薄ナイロン袋の口が、いとも簡単に開くのだ。畏るべし、ゴム手袋。

 一日が終わり手袋を脱いでみた。指先がすべすべだ。ざっくり割れた親指はさすがに治りはしていないが、他の9本の指先は毛羽立ちがなくなっている。効果覿面。でも臭い。ゴムの臭いではない臭さがある。

 もう一つ難点がある。トイレだ。直接触れないので手を洗わなくてもいいかな、という誘惑に駆られるみたいなメンタル面を言っているのではない。探しづらいのだ。特に冬は一枚多いので、くねくね辿らなければならないが、指先の感覚がゴムで鈍っているので、どこまでクリアしたのか非常に分かりづらい。もしかして間違った道を行っているのではないかと不安になってくる。急を要するときはとても焦る。でも一番気をつけなければならないのはチャックを下ろす時だ。指先のゴムが挟まるともうびくともしない。