maturimokei’s blog

俺たち妄想族

『羅生門』論4

三 『羅生門』の魅力と主題

 

 「手段を選ばないという事を肯定しながらも、この『すれば』のかたをつけるために当然、その後に来る可き『盗人になるよりほかに仕方がない』と云ふ事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」と設定されて下人が登場した以上、読者の関心、作者の技量は、如何にしてこの問題を解決するかである。手段を選ばないというのがエゴイズムであるなら、エゴイズムは前提として既に肯定されていて、実行するための「勇気」を如何に出すかが問題なのである。下人が盗みをするためには、何か楼の下では無かったものが必要である。楼の上で一晩寝たら盗人になっていましたとさ、では誰も納得しない。現実がそうであるように、多くの小説がそうであるように、変わるためには他者の言動が必要である。そこに多くは主題がある。一般的に、悪が善に変るのは多いが、善が悪に変るところにこそ、芥川の真骨頂があると言えなくもない。
 が、話を聞いて同意するためには、相手との信頼関係が必要だ。説話世界においては、観音、仏、現実世界においては、知人や学者だろう。老婆はどれでもない。初対面の軽蔑すべき老婆の言葉が、なぜ説得力を持つのか。そこに、『羅生門』の鍵がある。

老婆の論を整理すると、
①死人の髪を抜くことは悪いことである。

しかし
②ここにいる死人はそれ(悪いこと)をされてもいいくらい悪い人である。(だから自分は許される)
③女や自分は飢え死にをしないためしかたなくしている。(だから許される)
④仕方がないことを知っている女も大目に見てくれる。(だから許される)

この論理がそのまま下人に利用される。

①老婆の着物を剝ぐことは悪いことである。

しかし
②老婆は死人の髪の毛を抜いていて、引剥ぎをされてもいいくらい悪い人である。(だから許される)
③老婆や自分は飢え死にをしないためしかたなくする。(だから許される)
④仕方がないことを知っている老婆は恨まない。(だから許される)

 この論理のすり替えの鮮やかさこそが、『羅生門』の命ではないのか。『蜘蛛の糸』で犍陀多が、自分が助かりたい一心で、罪人たちに「下りろ」と叫んだ瞬間糸が切れたように、助かるための自分の言葉が、自らを窮地に陥れる。このクロスカウンターこそが、『羅生門』のおもしろさなのだ。「きっとそうか、ならば、死体の着物を剝いでも死人たちは恨むまいな。」と言って、下人が死体の着物を取っていくことは可能だった。しかし、そうなると『羅生門』の魅力は全くなくなる。クロスカウンターを打つためには、下人は必ず老婆の着物を剝がなければならない。芥川は抜かりがない。梯の上段で「着物を着た死骸とがある」ことを下人に確認させている。芥川は伏線を張っているのだ。生きるためなら、死骸の着物も剝げばよい。事実『羅生門』の元となった今昔物語集では「盗人、死人の着たる衣と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ばひ取りて、」となっている。芥川は、意識的に「死人の着たる衣」を省いたのである。
 なぜか。それは老婆の着物を剥ぎ取ることに意味があるからである。生きるための行動ではなく、老婆を「あざける」ための行動だったからなのだ。下人は自分の正義感の余韻に浸るべく、老婆に死人の髪を抜くという行為に走らせた悪にまみれているにちがいない理由を聞きだそうとする。しかし、期待に反して、老婆の答えは平凡だった。下人の行為の価値をおとしめた老婆に、下人は憎悪と侮蔑を抱く。そのはけ口は当然老婆に向けられていたのである。
 老婆を「あざける」ことが目的の下人が「きっと、そうか。」と念を押すのは当然である。老婆に自論を変えられては、揚げ足が取れないからである。老婆は言い訳をすることで、下人に口実を与え、かえって自分を窮地に立たせているのに気づかない愚か者なのだ。「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」言葉の内容はエゴイズム容認論だ。しかし言葉の意味は「お前は自分の言っている言葉の意味がわかっていない愚か者だ。」である。この言葉で、世界は一瞬にして一八〇度変わる。老婆は自分の言葉で、自分を身ぐるみ剝がさせたのである。ここに『羅生門』の真髄がある。

 付け加えると、『蜘蛛の糸』と少し違う点がある。『蜘蛛の糸』は、犍陀多の言葉が短い。一瞬のどんでん返しである。しかし、『羅生門』は長い。ここにも、おもしろさの演出がある。私たちが笑うのは、一つは意外なことが起こる時である。第一章で述べた、通常と違う言葉遣いはそれに入る。もう一つは、予想通りに愚かなことが起こる時である。落語で与太郎が、ご隠居に教えられたことを次々に外していく時である。最初こそ、意外性の笑いであるが、二つ目からは、聞き手は、次に起こることを、予想して笑いを我慢している、そして、予想通りに愚かな行動が起こった瞬間、どっと笑うのである。『羅生門』の老婆の語りには、その要素がある。「しかし、これを聞いているうちに、下人の心にはある勇気が生まれてきた。」まで読み進めば、賢明な読者なら、老婆の論理が使えることに、気づくのではないか。そして、下人の言葉を待ちかまえる。「では、おれが」の「では」は、決して省くことができない言葉なのである。この一点に流れ込むように、変な言葉遣いも、過剰な直喩も配置されたのだ。全ては笑いのために、余りに暗い蔑みの笑いのために。
 しかも芥川は、最後の最後に、すごい仕掛けをセットした。「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。 /下人の行方は、誰も知らない」下人が盗みを肯定したと読んでいた読者までも、暗闇の中に突き落とすのである。

 「下人は、既に雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」という結びの書き替えについては昔から指摘されている。老婆の揚げ足を取っただけで、免罪符をもらい、自分の意志で盗人になると決めたわけではない下人が、京という目的に向かって、雨をものともせず、活動的に走るというのは全くおかしい。芥川が手直しをしたのも当然であろう。宇治拾遺物語では有名な盗賊として、袴垂の名が挙がるが、下人が彼のような有名な悪人になれる訳もない。「生きるために仕方なく」するエゴイズムは老婆の論理ではあるが、下人の論理ではない。彼に論理などないのだ。揚げ足取りの、主体性の無い人間の行方は「誰も知らない」のである。

 「馬鹿男と馬鹿女が日本中に充満してゐるやうな気がします 大学生は生徒も先生も低能児ばかり」(大正四・五・二山本喜誉司宛)という、この頃の彼の気分も反映していたのかも知れない。 
 この時期、つまり第三次新思潮時代、芥川ははっきり小説家をめざしていた訳ではない。翻訳や、習作の時期であった。『羅生門』は、彼の三作目であり、かなり野心的に実験的な小説として作られたものではなかったか。自業自得への揶揄がテーマなら、第一章で説明した、滑稽で過剰な表現はテーマにふさわしい。皮肉、揶揄は、初期一五作品中一〇作のテーマでもある。死は生きたいと言う青年から命を奪い、命を取ってくれと言う青年を生かす(『青年と死』)。内供は、願いである鼻が短くなることが実現したがためにあからさまに嗤われ(『鼻』)、劉は治療を受けたために健康を害し家産が傾き(『酒虫』)、道士は永遠の命と富を得たために苦しみ(『仙人』)、五位は念願であった腹いっぱい芋粥を食べることが苦痛以外の何ものでもなくなる(『芋粥』)。これら作品群の中に『羅生門』はある。これらはエゴイズムという概念なのだろうか。むしろ皮肉とかパラドックスとか不条理に近いものではないのか。
 山本喜誉司への書簡に 「僕の云ふことは全て詭弁でparadoxで論理を無視してゐるのださうだ」(大正二・八・一一)と書いている。パラドックスは芥川の心の中を常に占めていたようだ。パラドックスや皮肉は読者の心を揺さぶる。しかし、ではパラドックスを使って具体的に何が言いたいのか、となるとよくわからない。パラドックスの強烈さに目がくらんでしまうのだ。文章そのものの意外性を楽しむ、それでいいではないか、と開き直りたくなる。『羅生門』はだまし絵なのである。絵だから描く対象はある。背景もある。絵画を愛した芥川が、テクニック満載のだまし絵に心引かれたとしても、不思議ではないだろう。だまし絵を見るように味わえばよいと私は言いたいのだ。しかしここまで来て主題がよくわからないというのは忍びないので、あえて書けば

主題一 自ら望んだことで自分を窮地においやることがある。
主題二 主体性のない人間は愚かしいものだ。
主題三 人の気持ちは状況により直ぐ変り、悪も善も紙一重のところに存在している。

ということであろうか。

 『あの頃の自分のこと』(大正八)に『羅生門』の制作背景が書かれていることは古くから指摘されている。その部分は芥川の手で後日削除され、現在では別稿として扱われている。ここに引用する。「恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状とかけ離れた、なる可く愉快な小説が書きたかつた。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取つて、この二つの短編—『羅生門』と『鼻』—を書いた。書いたと云つても発表したのは『羅生門』だけで、『鼻』の方はまだ途中で止まつたきり、暫くは片がつかなかつた。その発表した『羅生門』も(略)やつと活字になることが出来たが、六号批評にさへ上らなかつた。のみならず、久米も松岡も成瀬も口を揃へて悪く云つた。」『鼻』は捗らず、結末がついた夜「自分はひどい気疲れと一しよに、何とも云へないはかない心もちがした。愉快なる可き小説が、一向愉快とも何とも思はれなかつた」と書いている。「愉快な小説が書きたかつた」は必ずしも書けたことを意味しないが、「現状とかけ離れた」の記述は失恋と離れたという意味になる。『鼻』は書き終わった後「愉快とも何とも思はれなかつた。」と書いているように、最初に意図した愉快な作品にはならなかった。一方『羅生門』については、無視されたことや批判されたことが述べられているが、「愉快な小説」になったのかは「別稿」では明らかにしていない。私の分析は既に述べているように、笑いをとろうという意図は『羅生門』に多々見えるということだ。したがって、「現状とかけ離れた、(略)愉快な小説が書きたかった」という記述は私の考えの補強になるだろう。しかし、当時の読者にとって、題材やテーマは「愉快」な作品からほど遠かったろう。表現の観点からの「愉快」の分析もなされなかったのだろう。
 『あの頃の自分のこと』の中で私が興味深く思うのは、同じく後日削除される次の部分である。「モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は仏蘭西語でも稽古する目的の他は、彼を読んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に悪魔の如く巧妙な贋金使だった。だから用心しながらも、何度となく自分は贋金をつかませられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうなNihilと云う字が押してあった。」ニヒルとは芥川自身のことではないのか。自分と似ている人を人は嫌うのだろうか。嫌う人に似ていくのだろうか。

 

四 Defendence for ¨rasho-mon”に書かれた制作意図

 

 芥川自身が『羅生門』への批判に対して、制作意図や自身の評価について書いていると思われる文がもう一つある。『芥川龍之介全集』第二十三巻に以下の「ノート」の記述である。大学ノートに、『羅生門』の草稿と英文評が五評書き残されている。英語だけでなく、フランス語、ドイツ語も出てくる。

英文評1
Defendence for ¨rasho-mon”
 This story is not founded upon the “taste” nor upon the interest.
英文評2
Dear Mr. Naruse,
 I think you read my ‘Rasho-mon’ and too, can find nothing smeling of “l’art pour l’art”.
英文評3
Defendence for “Rashomon”
 I didn’t write this story according to
英文評4
Defendence for “Rasho-mon”
 This story is the best work I have ever written. This I can say heartily. But I must also admit that I could not fully express myself in this short story; some parts are very weak and desperately dull-to-read. When I read and re-read my story in print, I could not help feeling a keen self and laughing at my haughtiness which makes me scorn almost all the works of contemporary Japanese writers. This mood is not at all agreeable.
英文評5
defence for “rasho-mon”
 “Rasho-mon” is a short story in which I wished to “verkörpern” a part of my Lebensanschauung-if I have some Lebensanschauung,--゛but not a piece produced merely out of “asobi-mood”. It is “mora1” that I wished to handle. According to my opinion, “mora1”(at least, “moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.

 

 訳してみる。別訳も考えられる。原文を見て欲しい。

○英文評1
羅生門』擁護
 この話は「趣味」や興味で作ったのではない。
○英文評2
羅生門』擁護
 成瀬様
 私の『羅生門』を読んでくれたと思う、そして、「芸術のための芸術」のかけらもないと思っただろう。
○英文評3
羅生門』擁護
 私はこの話を(原文で無記述)に合わせようと思って作ったのではない。
○英文評4
羅生門』擁護
 この小説は、私が今まで書いた中での最高傑作である。心からそう言うことができる。しかし、同時に、この短編に十分に自分自身を表現しきれなかったことを、ある部分はとても貧弱で、絶望的なほど読むにはだるいことを認めざるを得ない。印刷されたものを読み返した時、そのキレ味は自負するものの、現代国文学者のほとんどの作品を取るに足りないとした、私自身の高慢さに失笑せずにはいられなかった。こんな思い上がりは全く辟易する。
○英文評5
羅生門』擁護
 『羅生門』は私の人生観—もし私に人生観があるとしたら—の一部を描こうとした小説である。しかし、単に「遊びムード」から制作された作品だというのではない。これこそ私が扱いたかったモラルなのだ。私の考えとは、「モラル」(少なくとも凡人のモラル)は、その時々の状況で生まれるその時々の印象や感情の産物だということなのだ。

 

 英文評5を見ていただきたい。まさに彼の制作意図が書いてある。彼が言いたいことはエゴイズムでないことははっきりした。ただし、いくら筆者の言いたいことがあっても、作品に反映されなければ意味がない。大丈夫だ。『羅生門』から十分に読み取れる。私が三で示した、人の気持ちは状況により直ぐ変り、悪も善も紙一重のところに存在しているという解釈は、芥川の意図の範囲に入っているだろう。
 「下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった」この部分に関しては、死体損壊は理由の如何によらず罪悪だ、屁理屈を言っている、と気になっていた。しかし、絶対的モラルの不在を主題とするならば、この部分も解釈できる。つまり、「雨の夜」だから罪だ、というだれが考えてもばかげた理由も、常識人にはすぐに思いつかない死体損壊が罪にならないための理由も、同じ水平線上にある、と言っているのだ。絶対的モラルの不在の前には、どの理由も同じレベルなのだと。事実私たちは、死体を傷つけることは許しがたいのに、はさみで遺髪を切ることにはなんの抵抗もない。鳥葬する民族もいる。
 事件が始まりかけた時に、主題の片鱗を見せることが、芥川にはある。『仙人』しかり、『芋粥』しかり。老婆の行為を「合理的には」判断できないという先ほどの記述が『羅生門』という作品全体を見た時に効果があるのか、つまり、この部分が伏線としての働きをしているのか、それとも中心の分散になってしまったのか、にわかに結論を出すことは、私には出来ないが、モラルが状況によって変るという芥川の考え方が、ここにも現れていることは確かだ。
 善と悪について、芥川はこのような書簡を井川恭に送っている。
 「所謂善悪はロゴスに従ふ行動を浅薄なる功利的の立場より漠然と別ちたる曖昧なる概念なり」(大正三・一・二一)自然の摂理に従う行動を、人間が功利的な立場から善とか悪とか言っているに過ぎない、と考えているのだ。
 英文評4を見ていただきたい。「scorn almost all the works of contemporary Japanese writers」 つまり、現代国文学者のほとんどの作品を取るに足りないとした制作時の自信は、どこから来ていたのか。エゴイズムを克明に描くのが高慢ちきであるわけがない。エゴイズムの観点だけなら、作品の出来からすれば半年前に完成していた『こころ』と比較するのもおこがましい。いや、当然だ、エゴイズムなんてその時々に変わるモラルの一例として扱っただけだからだ。別にエゴイズムでなくてもよかった、愛であっても、正義でも、親切でも、勇気でも。必要だったのは変化する状況を描くための前提だったのだ。第一、芥川は『羅生門』でエゴイズムなどという言葉は一度も使っていない。
 話を戻そう。では、彼の自信、思い上がりはどこから来たものなのか。それは表現だ、と私は言いたいのだ。彼の持つテクニックを、これでもかとつぎ込んだ表現に対する自負だと私は思うのだ。
 “asobi-mood”が、何を意味するのか、この文字を見つけた時は、心が震えた。これこそが、直喩、皮肉、意味外し、パラドックスではないのか。笑い、オフセットは“asobi”の基本である。

 

次回は、老婆の論理から考えられる「羅生門」誕生の私の仮説を述べたい。