maturimokei’s blog

俺たち妄想族

『羅生門』論5

四 仮説
 

1 『虱』

 芥川龍之介全集第一巻を元にすると、初期芥川作品は、翻訳もの、江戸趣味もの、古典もの、現代ものに分類される。『羅生門』は古典ものに属するものであるが、続く『鼻』と『芋粥』の間に発表された、『虱』に注目したい。注目する理由の一つ目は『虱』が『鼻』を漱石に絶賛された後、芥川が初めて雑誌社から注文を受け、原稿料をもらってプロとして書いた作品だということである。なんらかの意図や自負があったはずである。『羅生門の後に』では、「『新思潮』以外の雑誌に寄稿したのは、寧ろ『希望』に掲げられた、『虱』を以て始めとするのである」と『芋粥』より早かったと自ら指摘している。二つ目は文体が『羅生門』に似ていることである。似ているという表現は主観的なので、証明したいが、ここでは「白胡麻をふり撒いたように」「殊に日が暮れてからは」という『羅生門』冒頭部分とよく似た表現が使われ、「その上」「それも」「前にも云つた通り」など説明的な接続詞が多用されていることを挙げるだけで置きたい。三つ目は、『あの頃の自分のこと(別稿)』で記された「愉快な小説」に、『虱』も含まれるのではないかと思われることだ。『羅生門』発表の三ヶ月後に『鼻』、その三ヶ月後に『虱』が発表されている。『鼻』は「愉快とも何とも思はれなかつた。」(『あの頃の自分のこと(別稿)』)と芥川は自ら書いているが、『虱』こそ「愉快」というにふさわしい小説だ。『虱』は『羅生門』『鼻』の延長線上にあると考えられる。
 さて内容は、男ばかりが乗った船の中で、虱擁護派と虱捕食派が、刃傷沙汰に及びそうになるという、ばかげた話である。しかし、この船が、長州征伐に行く加賀藩の船だという一文を加えることで、戦争や明治維新に対する皮肉の意味を持ってくる。では芥川は、社会的なことにも関心があったのだろうか。『羅生門』発表の一ヶ月前に書いた『松江印象記』(『芥川龍之介全集』第一巻)において、次のように示されている。

 「しかも明治維新とともに生まれた卑しむべき新文明の実利主義は全国にわたって、この大いなる中世の城楼を、なんの容赦もなく破壊した。自分は、不忍池を埋めて家屋を建築しようという論者をさえ生んだわらうべき時代思想を考えると、この破壊もただ微笑をもって許さなければならないと思っている。なぜといえば、天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥足軽輩に理解せらるべく、あまりに大いなる芸術の作品であるからである。今日に至るまで、これらの幼稚なる偶像破壊者《アイコノクラスト》の手を免がれて、記憶すべき日本の騎士時代を後世に伝えんとする天主閣の数は、わずかに十指を屈するのほかに出ない。」
 明治政府に対して手厳しい。 
 また『芋粥』(大正五年八月)では
 「一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。王朝時代の小説家は、存外、閑人《ひまじん》でない。」と自然主義に対する批判的な思いを隠しはしない。
 話を『虱』に戻すと、「元治元年」としてるから、第一次長州征伐である。長州は尊皇攘夷を掲げていたが、公武合体派の会津薩摩により京都警備の任を解かれた。名誉回復を目指し再び上洛したのが禁門(蛤御門)の変である。そのとき、京都警護の任に当たっていた加賀藩は逃げてしまう。その後長州を討伐するよう、朝廷の命令が全国に下る。『虱』はそのときの話という設定である。その後攘夷を主張していた長州は、薩摩と手を組み攘夷を捨てる。加賀は鳥羽伏見の戦いで幕府についていたが、新政府軍が優位と見るや掌を返す。以上のことは『虱』の中では一切触れられていない。しかし、当時多くの人は歴史的事実として知っていたのではないか。『虱』は、幕末の二つの主義の中で右往左往した藩が召し抱える、シラミに関する自論を変えないで対立する二人の男の物語なのである。

 

2 シーメンス事件


 ここからはあくまでも仮説である。『羅生門』も『虱』同様、何らかの社会的な出来事を頭に描いて書かれたものではないのか、ということだ。『虱』は「長州征伐」の文字を入れてはじめて、パロディーだということが伝わる。しかし、『羅生門』には事件を表す言葉はない。それは書かなくてもわかると思ったからではないのか。みんなが知っているならば、はっきり特定しない方が皮肉のレベルは上がる。また、現権力に対する批判のカムフラージュとしての寓喩は弱者の常套手段だ。当時の人々の耳目を集めていた有名な事件。それはシーメンス事件だ。大正三年三月、山本内閣を総辞職に追い込んだ汚職事件である。シーメンス社は現在、医療電子機器の大手であるが、当時、日本海軍の電子機器を一手に納入していた。シーメンスは入札情報を事前に入手し、海軍将校や大臣に謝礼を払っていた。その秘密書類をシーメンス社員が盗み出し、東京支店長を恐喝した。未遂に終わるが、ドイツ司法裁判所は海軍の受注に関して、歴代宮内大臣を含む贈収賄があったと認定したが、贈収賄が犯罪を誘発したとして社員の情状酌量を認めた。罪が罪を生んだのだから情状酌量するという判決。恐喝されてもよいような人間ばかりがいるという状況。老婆の論理と似ていないか。しかも、罪を犯すのは、飢え死にをするような状況と対極のシーメンス社東京支店長、宮内大臣、これほどの皮肉があろうか。
 大正三年三月十九日、芥川は井川恭宛の書簡にこう書いている。
 「谷森君のお父さんは貴族院の海軍予算修正案賛成派の一人ださうだ。尤も内閣の形勢が悪くなる前は権兵エ《ママ》をほめてゐたが風向きがかはると急に薩閥攻撃にかはつたんだから少しあてにならない賛成派らしい」この手紙は、『羅生門』の死体を描くのに参考にしただろうと以前から指摘されている医学部の解剖見学の日の三日後の手紙である。
 また「或る阿呆の一生」の中にも、前述の医学部見学を描いた「九 死体」がある。「彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死体の臭気は不快だつた。』(『芥川龍之介全集』)とあるが、その三つ後の話に「十二 軍港」がある。「潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を蔽つた機械の中に腰をかがめ、小さい目金(めがね)を覗いてゐた。その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。「あすこに『金剛』も見えるでせう。」或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。」の記述が見える。「金剛」はシーメンス事件の発端になった軍艦の名である。大正六年には芥川自身が乗り『軍艦金剛航海記』を書いている。『羅生門』執筆当時、芥川もシーメンス事件に関心を持っていたのではないのか。ただ、それが作品に反映したという確証はない。しかし、罪が罪を誘発したのだから情状酌量できるという判決の論理を、芥川は『羅生門』中であざ笑っていることに結果としてなっている。
        
 蛇足のようである。私の結論は、『羅生門』は「極限状況において、エゴイズムは許される」ということが言いたくて書かれたのではないということだ。露悪的な彼は「極限状況において、エゴイズムは許される」という反社会的な衣を着ながら、善でもあり悪でもある矛盾を抱えた人間存在を前に、言葉と論理のわかる大人を対象として、どんでん返しの爽快さを仕掛けた、言葉遊びの小説を実験的に書いたのだということである。
 実験的と書いた。『羅生門』は芥川の得意な王朝物だ、と我々は思う。しかし、王朝物は『羅生門』から始まるのであり、処女作『老年』も『ひょつとこ』も、芥川の慣れ親しんだ江戸趣味を下敷きに描いている。『羅生門』は彼にとって初めての王朝物なのだ。
 昔から指摘されている描写がある。「羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子《ママ》を窺つていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしてゐる。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。」既に出てきている人物を「男」と望遠化する手法は、『芋粥』にも引き継がれるが、描かれた全身像から映画を思わせるズームアップが始まる。芥川は『芋粥』を起筆する一週間前である大正五年七月下旬にタイタニック号沈没を扱った映画『アトランティス』を観ている(『芥川龍之介全集』第二十四巻)。彼が劇場や美術館に頻繁に行っていることも書簡に残っている。彼の小説の描写の鮮やかさは、絵や演劇や映画へ興味の深さが反映しているのであろう。当時アメリカで映像作家グリフィスはクローズアップの手法を確立し始めていたが、芥川が行っているのはそれどころか、ズームアップである。ズームレンズが開発されるまで、時代はあと五十年待たなければならなかったが、芥川の頭の中にはズームアップする映像が既に存在していた。彼はあらゆるテクニックを駆使して、習作『羅生門』を創り上げた。そういう意味で、『羅生門』は不自然で未熟だが、芥川らしさの詰まった、彼の代表作であることは変わらない。
 『鼻』を激賞した漱石が、『芋粥』について後半は褒めるものの、前半については「骨を折り過ぎました」「細叙するに適当な所を捕らへてゐない点丈がくだくだしくなるのです。too laboured といふ弊に陥るのですな。うんと気張りすぎるからああなるのです(大正五年九月二日夜付)」(『日本文壇史』24・伊藤整瀬沼茂樹)と、前半に「シンプル」さがないと批評している。『羅生門』は漱石の目にどのように映ったのだろうか。
 芥川にとって、テクニックの駆使は、結局虚しい作業であった。自らの救いにはならないからである。社会の変革のための文芸を堕落と考える芥川であるが、それ以前に、魂の解放を信じられるほど彼は楽天的になれなかった。漱石が生きる可能性を模索しているのと対照的である。『こころ』で、先生は遺書を通じ、「新しい命」が「私」に宿ることを期待している。謝罪を許されない後悔という暗いテーマの物語の中で、唯一希望の見えるところである。そこには血縁を超えた結びつきへの期待がある。世代を超えた、血縁から解放された、尊敬による新しい人間関係に漱石は可能性を見いだしているのである。しかし芥川は若すぎた。エゴイズムというより、彼自身が嫌ったニヒリズムに向かって、人間存在の不条理の方向に、彼は歩んでいくのである。

 

五 最後に 

 『羅生門』は現在多くの学校で採用されているが、高校一年生向きの教材としてふさわしいかというと、私は否と答える。「第一章表現」で述べてきたテクニックは玄人向けであり、面白がる前提が高校一年生にはまだできていない。「第二章主題」で述べた内容は、希望に溢れかつ思考の枠組みを学ぶべき高校一年生の一学期にはあまりにアナーキー過ぎる。むしろ二年生後半以降に扱うべき作品ではないだろうかと考えている。
 『羅生門』エゴイズム論という、もう古過ぎる話題に何をいまさら感情的になっているのかとおっしゃる方もあろう。確かに本稿を読み返してみると、存在しないものへの攻撃のようにも見える。しかし、私が若い日に、訳もわからないまま指導書に従いエゴイズム論を教壇で生徒に教えたという過去を清算するためには、私自らが考え、調べ、私を納得させる必要があったのだ。
 「ノート」は二十年も前に出版された岩波書店の『芥川龍之介全集』に収録されていた。ということは、「モラルの変動性」を主題におく解釈はもう既に一般化しているのだろう。ネットを見ると感想文の例にも見られた。芥川が映画を見ていたのかを調べていて、偶然「ノート」の存在に気づいたことは、嬉しくもあり、井の中の蛙であったかと赤面もした。しかし、今回、表現の分析から始まり、芥川の他の著作に広がり、最後に「ノート」にたどり着いたことを私はよしとしている。
 作者の制作意図が残っていないと作品が観賞できないとは全く思わない。しかし、残っていれば、仮説が証明される。こんなに楽しいことはない。先ず作品、次に仮説、最後に証明資料の発見の順番なのだ。この順番だからこそ、作品の独立性が保たれるのである。“asobi-mood”とは何なのか、「シーメンス事件」の記述がどこかにないか、新しい宝探しが私を誘惑する。

 

平成二十七年七月三十日
平成二十八年四月二十六日加筆

令和四年一月二十七日加筆