maturimokei’s blog

俺たち妄想族

『羅生門論』6

六 追記 吉田精一の『芥川龍之介』 

 

 吉田精一の『芥川龍之介』を手にして、彼の東西を通じた読書量の多さに驚愕する。当時の文壇の諸作品はもとより、芥川の愛した作家に関してはボードレールを始めストリンドベリモーパッサン—もっとも彼については大嫌いだと芥川は書いていたが—私の知らないその他大勢を、文体や芥川への影響を云々できるほどのレベルで読破している。そして、彼のこの論文こそが、芥川研究の嚆矢であり、私たちの芥川龍之介についての知識が、私たちが使ってきた指導書が、私が参考にした芥川に関する書物が、それらのほとんどがここから来るのであろうことを知った。芥川の作品や残したものを始め、芥川に関わった人々から取材し、時代順に構成し直したお蔭で、我々は、芥川がどのような人生を歩んでいったのか詳細に知ることが出来たのだ。しかも、この三八〇ページにわたる論文が、吉田の三四歳の時に書かれたことに驚嘆せざるを得ない。彼はこの後、日本近代文学界の中心となり、全二五巻別巻二巻の圧倒的文量を誇る著作集を残しているが、むべなるかな、である。


 他の資料から、断片的に吉田の芥川論を垣間見ていた私であったが、原本(正確には日本図書センターによる復刻本)を見ても、私の観賞は揺るがなかった。エゴイズムの根拠は、私の類推した書簡を元にしたものだった。『羅生門』に先行する『老年』『ひょっとこ』の評価は、方向性において同じである。ただ所々、重大な点において私と違うところがある。
 たとえば、「自分は善と悪とが相反的にならず相関的になってゐるやうな気がす 性癖と教育との為なるべし(略)ボオドレエルの散文詩を読んで最もなつかしきは、悪の讃美にあらず 彼の善に対する憧憬なり 遠慮なく云へば善悪一如のものを自分は見ているような気がする也」という芥川の書簡を、吉田は「ボオドレエルの詩や散文にある瀆神の言葉は、むしろカトリックの原罪の思想に培はれた悲痛な内観であつた。その負はされてゐる罪を通じてしか、神を認識しえない近代人の心情の懺悔であつた。醜を愛し罪を愛する心は、神への切ない愛慕であつた。しかも、常に悪との対話を試みることによつて、超自然の光明を欣求したのである。龍之介が呼んで善悪一如のものといつたのは、この間の消息を看破したものであつたらう」と、解釈を施している。「ボオドレエル〜欣求したものである」までは、ヨーロッパでは常識的な解釈なのであろう。どこかで聞いた気もするし、キリスト教圏はそうだと言われれば、ありうる解釈だと同意もする。しかし、それが突如、龍之介がボオドレエルを看破したといわれると、ちょっと待て、と言いたくなる。彼は善悪の相関を「性癖」と「教育」の為と書き、内在するものとして認めている。ボオドレエルがキリスト教精神の上に成り立っていることを看破したという理知の問題ではないのだ、と言いたくなる。悪を感じることでしか善が認識できないという話ではないのだ。自分の中に善も悪も感じるから、善に憧れる気持ちがわかる、と言っているのだ。


 二面性の内在は芥川にとって大切なテーマだ。漱石は二面性を「しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型《いかた》に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」と『こころ』で先生に言わせている。これは『羅生門』で描かれた、状況がモラルを生む、という考え方だ。ただし、漱石が「平生はみんな善人」なのに「変わる」と書いているのに対し、芥川は善も悪も既に内在していると考えていたのだ。
 二面性を描いた『ひょつとこ』では、死んで面を外された平吉の顔は、いつもの平吉の顔でないのだ。つまり、二面性のどちらでもない第三の顔、二面性のどちらをも肯定できない苦しみに満ちた顔なのである。善であること、または悪であること、またはそれが入れ替わることを肯定できれば、それはそれでよい。しかし、それら肯定できない人生は苦しみでしかない。
 また、『青年と死と』は「当時流行したメエテルリンク風の手法で、死を予想しない快楽は欺罔に生きるにひとしい、という主題を描いてゐる」と吉田はしているが、「己の命をとつてくれ。そして己の苦しみを助けてくれ」と生かされた青年が叫んでいるではないか、なぜもう一人の引き立て役の主人公でない、快楽主義の青年の話をするのか、書いていることから理解すればよいではないか、なぜいちいちヨーロッパに飛ばなければならないのか、と言いたくなる。吉田の解釈に関しては引用箇所と結論の関係において他にも理解しかねることがある。


 吉田は、多数の教科書の編纂にかかわっている。そのため多くの会社の指導書がエゴイズム論を採用する結果になった。私の高校時代の教科担任も、私もエゴイズムを教え続けた。多くの学者や編集者が異を唱えることのないまま、エゴイズム論は日本中に広がった。吉田の死後十数年経つまで。
 しかし、それらは、吉田の偉業をなんら傷つけるものではない。なぜなら、彼の業績は指導書を通し、私自身の『羅生門』観を育んだはずだからである。先行する客観的な論文の無い中で、膨大な資料と博識を基に、彼流の解釈を施したからである。『羅生門』だけではない。全作品についてである。芥川研究の全ては吉田精一から始まったのだ。
 そのことを考えれば、私のした、最後に吉田の論文を読むことは、研究の王道から言えば全く逆行であった。しかし、観賞の王道から言えば、あながち間違っていなかったのではないかと思っている。悔やむべきは、芥川研究の嚆矢であり、昭和の文学界、教科書界の重鎮であった彼に忖度したのか、異を唱えなかった教科書会社であり、途中から間違っているのではないかと思いながらそのまま教え続けた私自身である。

 

令和二年二月一日加筆