maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」二「高等学校国語教育情報事典」より

 では、『羅生門』はどのように指導されてきたのであろうか。芥川のノートに書かれたように価値基準の無さを主題として指導する教授資料は存在するのだろうか。また、一世を風靡したエゴイズム論はいつから指導書に現れたのだろうか。

 「高等学校国語教育情報事典」(1992年大修館)で鳴島甫氏は「衆知のように、『羅生門』の主題の読み取り方にはいろいろある。」というように一つに絞ってはいない。続いて「その代表的なものを挙げてみよう。」と九種が挙げられている(p205)。どういうわけか発表順の配列ではなかったので、以下、発表順に並べ替えて示す。

 

〔1〕 芥川は下人の姿のなかに、当時のアナアキストの思想と行動を表現した。しかし、それと同時に、かかるアナルキスムは、それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ないではないか、と芥川は考えた。(岩上順一『歴史文学論』1942 中央公論社

〔2〕 下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。(吉田精一芥川龍之介』1942 三省堂

〔3〕善と悪との矛盾体である人間を、人間現実をそのままに示しだそうとした。(駒尺喜美芥川龍之介の世界』1967 法政大学出版会)

〔4〕 私はかつて『羅生門』を律法からの解放である、自分を縛る様々な束縛からの解放の叫びである、と『批評と研究 芥川龍之介』(1972年筆者注)で論じた。(関口安義『解釈と鑑賞』1986 ・ 7 )

〔5〕 『羅生門』で描いてみせたのは地上的なあるいは日常的な救済をすべて絶たれた存在悪のかたちである。人間存在そのものが、人間であるがゆえに永遠に担いつづけねばならない痛みであり、生きてあることにまつわるさまざまな悪や苦悩の根源である。(三好行雄芥川龍之介論』1976 筑摩書房)

〔6〕 極限状況に追いこまれたときでさえも、人間はなおも自己の反道徳的行為を正当化せずには安心できない矛盾をはらんだ存在である、ということが書かれている。(勝田和學・『羅生門』の核心・『日本文学』1977 ・ 2)

〔7〕 下人の心理の展開を、大人になり切れない青年の未熟さを表現するものとして理解するとき最も納得的であると私は思うし、その未熟さがのりこえられていくのが、この作品のおのずから語りかけてくる主題であるように考える。(門倉正二『国語研究教育講座』1984 有精堂)

〔8〕老婆の行為や脆弁に示される生き方(日常性の中に潜む俗悪なエゴイズムによる生き方)を侮蔑しつつ、下人は自分の力を誇示していくという生き方(自己を支える「強さ」としてのエゴイズムによる生き方)を獲得していく。(清水康次『解釈と鑑賞』1986 ・ 7)

〔9〕羅生門という題名に象徴される、自然と人事をつつみこんだ世界そのものを主題と考えたい。(平岡敏夫『国語I指導資料』大修館書店)

 

以上について、感想を述べる。

〔1〕突飛な印象を受けるが、それは「あらゆる人間は饑の前には暴力的な行為に狩り立てられるものである」「当時の労働運動の根拠をこの下人の行為に設定し」「老婆の形象の中には暴力的行為の理論に対する否定が含められている」という岩上の「アナルヒスム」の内容について触れた部分を削除しているからだ。「それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ない」というパラドックスの指摘は的を射ている。

〔2〕「下人の心理の推移」が主題と言えるなら、全ての小説において「主人公の心理の推移」が主題と言えるので、意味をなさない。「生きんが為に」「持たざるを得ぬ」ものを、餓死を防ぐことをエゴイズムと呼ぶのがふさわしいか疑問がある。

〔3〕「善と悪との矛盾体」は悪くないが「人間現実をそのままに」が不要ではないか。

〔4〕本文の何を指して解放と言っているのかよくわからない。事典の制作者は内容がわかる程度に抜粋箇所を増やすべきだった。

〔5〕吉田精一も彼の『芥川龍之介』でよく似たことを書いていたが、この論はキリスト教の原罪論を「羅生門」に被せただけの気がする。もう少し作品の個性に基づき細かく分析する必要があるのではないか。描かれたのは悪だけではなかったと思う。

〔6〕作品の個性に触れた分析だ。

〔7〕無関係な気がする。何をもって未熟というのかよくわからない。老婆の着物を剥ぐことで「未熟さがのりこえられていく」とは思えない。

〔8〕作品の個性に触れた分析だ。

〔9〕「自然と人事をつつみこんだ世界そのもの」は広すぎるし、それがどうだと言わないと主題にはならない。ちょっとびっくりしてしまう。却下。

 こうしてみると、抜粋の仕方が不適切なのか、納得できるものが少なく、主題の体をなしていないものもある。精査されず羅列しただけで、「代表」と言って良いのかためらわれる。パラドックスという視点からは1、下人が矛盾を抱え一貫性がないという視点では〔3〕〔6〕〔8〕が作品の本質に近いと思われる。しかし、芥川が述べている「moral」は「occasional feeling or emotion」の「production」だということに触れたものがない。1957年から採録が始まりながら、1992年時点で、大修館のいう「その代表的なもの」九種の中に、芥川自らが記した主題は含まれていないのである。

 鳴島氏は授業の例として、最初に「羅生門」を読ませ、主題について簡単に書かせた後、九種の主題を紹介し、1生徒の書いたものと同じもの、2同じではないが面白いと思うもの、3反論したくなるものという質問をされた。「主題を読み取る学習指導は、順次読み進めていって、最後に主題をひねりだすといったものではなくして、「主題を中心に据えて」読みの学習を仕組んでいくものであって、そうした方が討論もできるし、学習の活性化も図れるわけである。」と締め括られている。選択肢問題全盛期にふさわしい意見である。しかし繰り返し書くが、生徒が選ぶ九種の中に、芥川自らが記した制作意図は含まれていないのである。選択肢問題の持つ限界がここにも如実に現れている。「選択肢の中に適当なものがない」という選択肢を含めることで、学問は始まるのかもしれない。