maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」その三 昭和32年度教授資料

 『羅生門』の高校国語教科書の定番化について、幸田国広氏の研究がある。「定番教材」の誕生 : 「羅生門」教材史研究の空隙 - https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokugoka/74/0/74_KJ00008931246/_pdfより引用する。

羅生門」の場合、大正4(1915)年に『帝国文学』に掲載されてから、数度の改稿を経た本文が、戦後になってから国語教科書に採録されるまで実に約40年を要している。戦前から継続の芥川教材としては「戯作三昧」「手巾」「鼻」「蜜柑」等があったが、「羅生門」は昭和30年代になってようやく高等学校用国語教科書に登場する。では、その後、どのような軌跡を描いて「羅生門」が、現在いわれるところの「定番教材」となったのか。野中潤は、戦前には採用がなかった「羅生門」が戦後十年経過した頃「採録されるや、瞬く間に定番教材としての地位を獲得し、今日まで五十年以上にわたって教室で読み継がれている」とし、その理由は「生き残りの罪障感を解除し、許しや癒しを得たいと欲望する人々の無意識的な情念」にあるという。だが、「羅生門」の〈定番化〉は、この後見ていけばわかるとおり、けっして「瞬く間」になされたのではないし、繰り返しになるが一定の年月を経た後にようやく「定番」が誕生するのである。また、戦中世代の「罪障感」という「起源」の仮説のみで「定番教材」の来歴とその理由を語ることには無理があると思われる。では、「羅生門」はいつから「定番教材」となったのだろうか。まずは〈定番化〉の起点を確定する作業が不可欠である。

 

昭和32年にはじめて3社に採録されてから平成25年版まで、全19社192種の教科書に採録されている。初めて採用した明治書院数研出版、有朋堂のうち、当時の必修科目「国語甲」用は明治書院のものだけであり、他はいずれも選択科目「国語乙」用である。「国語乙」教科書は戦前の国文読本の趣向を引き継ぎ、古典名文選がそのほとんどだが、当該二教科書は数少ない近代文学を対象とした文学史のエッセンスを凝縮しその理解を促す資料となる内容のものであった。どちらも抄録で、後半の老婆と下人のやりとりから結末までが採られている。また、明治書院版も高校二年生用に採録されており、高校一年用に採録したのは翌年発行の三省堂版が初となる。

 

 というように

①「羅生門」の教科書採択は戦後に始まった。 

②最初は抄録であった。

③最初は高校二年用に採録された。

ということである。それらは私を驚かせたが、同時に私の持っていた疑問を解決するものであった。既に拙作「羅生門論」の「五最後に」で述べたとように、「羅生門」は「高校一年生の一学期にはあまりにアナーキー過ぎる。むしろ二年生後半以降に扱うべき作品ではないだろうか」と私は考えていた。しかし、戦後から採択が始まったこと、しかも後半の抄録であることを知った時、浮かんだ考えは、野中潤氏の「生き残りの罪障感を解除し、許しや癒しを得たいと欲望する人々の無意識的な情念」に合致したという指摘と同じものだった。戦争中、終戦直後、生きんがための犯罪はあっただろう。教科書において、それを仕方がないこととして許すのは社会的にもありうることだと。だが、その考えが、日本でGNP世界2位の時期を超え、学校に人権学習が導入され、そうした価値観がおもて上葬られているにもかかわらず、なぜ採録され続けるのか。そうした疑問に「定番化について」で幸田氏は答えてくださるが、戦後=贖罪という私の思いが全く的外れだったことは教授資料を手にして間もなくわかった。冷静になれば、採録が始まった昭和三十二年は、戦後既に十二年経っているわけで、終戦時に三歳だった子供に贖罪の必要があろうはずがない。

 

 まず、教授資料の入手のために、各教科書出版会社に過去の資料の閲覧希望メールを出した。返事は「確認が難しい」「準備できません」「希望に添えません」ということだった。教科書図書館の蔵書を検索すると、かなり揃っているようだった。電話をすると、館内閲覧しかできないということで、東京に行くしかない。親類の結婚式のついでに訪れることとする。幸い京都府立図書館が四冊所蔵していたのを、地元の市立図書館に870円で郵送してくれたので、手にすることができた。幸い最も古い昭和32年度版だ。これが見たかったのだ。

 

「日本現代文学選 教授資料」

数研出版)川副國基編著 昭和三十二年  月  日発行 55円

                   ※日付空欄筆者注

 はしがきに

一、これは文部省検定済高等学校国語科用教科書「日本現代文学選」の教授資料として編纂した。

とあるように、選択科目だったらしい。おそらく最も古い教授資料の一つだと思われる。教授資料六〇頁に「羅生門の引剥《ひきはぎ》」として、わずか1頁が割かれているだけである。語釈が【瞼の赤くなった云々】から始まり、【意識の外に追い出されていた】まで十語についてある。解説もわずかに

 

【参考】新人らしい当時の芥川の気負った文章である。いかにも新鮮なぴりっとした描写や文章で芥川の理知的作家であることを思わせるところがある。

【研究】

一、【語釈】参考。

二、「瞼の赤くなった、肉食鳥のような鋭い眼」から「鴉の啼くような声」までによくあらわれている。即ち、眼付き、唇、喉仏、声などの描写に、思わず嫌悪を感じるような描き方がある。

三、老婆が生きるためには死人からものをとってもよいと言ったことに対して、それなら自分だって同じ行為がゆるされる筈だという勇気。

四、老婆に対して冷然としてその話を聞いている下郎(ママ)、老婆を見下して軽んじている下郎、太刀に手をかけ、時によっては老婆を切り殺そうとかかっている重大な場面の下郎が、一方の手では実に些細な顔のにきびを気にしているというところにおのずからユーモアがわき出ている。

 

 とあるだけである。ちなみに参考文献の記載はない。幸田氏が指摘されたように、「羅生門」後半の抜粋であるようだ。この教科書は、「羅生門」だけではなく本文の一部を抜粋して掲載している。例えば「舞姫」はタイトルを「エリス」として、語釈は【獣苑】から【そが傍に少女は羞を帯びて立てり】までであることが示すように、抜粋を作品の主題部分に絞ろうという観点があるわけでもない。むしろ表現や描写に力点があるように感じられる。「羅生門」では老婆の描写が取り上げられている。もちろん、表現の読み取りなしに主題探究はないのだが、昭和三十年台の他の教授資料を見ても、表現に対する注意の喚起はかなり見られる。

 この教授資料にはエゴイズムの文字はなく、「それなら自分だって同じ行為がゆるされる筈だという勇気」とある。また、にきびを重大な場面に些細なことを気にかけている「ユーモア」ととらえている。こうしたアンバランスに伴うユーモアは、拙作「羅生門論」にも通じるものであり、同感だ。昨今は、にきびを下人の迷いや決断や良心の象徴とする解釈を見受けるが、逆ににきびに象徴的な意味を与えるのはエゴイズム論を前提にして引き出した解釈ではないのかという疑問を持つ。下人は揚げ足を取っただけで、決断したわけではない。責任転嫁しただけなのだから。芥川はチグハグした可笑しさを描こうとしていたのに、後世の者がしかめっ面でシリアスに解釈しようとしている気がする。この教授資料には参考文献が示されていない。その分自由に編集者は感想が書けたのではないか。

 

 

「高等学校新国語 総合一 教授資料」

三省堂)土井忠生編 昭和三十二年六月十日発行 274円

 

 土井先生の名前を見て驚いた。私の大学一年前期の選択ゼミの教授である。私の文学研究の第一歩を支えていただいたのに、いつもゼミ中にお茶を飲ませてくださる優しいおじいちゃんという記憶しかない私の怠惰が悔やまれる。教科書を編纂なさって十五年後にお出会いしたようだ。おそらく必修科目だったのだろう、この教科書には、「日本現代文学選」の副読本的な性格とは違い、全体を統一しようという編纂意思が感じられる。

 単元概説(p 18)によると、「Ⅳ人間性」の単元に入れられ、「走れメロス」「羅生門」「塔の上の鶏」で構成される。

 

第一課は、理想主義的な青年前期の心理には最も適した材料であろうと思われる。(略)第二課は、かなりどぎつい、冷酷な人間観察の物語で、少年向きのものではない。しかし、高校一年と言えば、こういうものをもつきつけて、人生をより深く考えるきっかけを作ってやることは重要であろう。特に、第一課のうらとして、あわせて人間性をより深く考えさせたいために、採用したのである。

(略)第三課は、西欧の作品で、しかも、一、二とは違った現実的な短編というねらいで選んだ。ユーモアのある、また皮肉な小説で、生徒にも親しまれるだろうと思う。

 

 とある。ちなみに「塔の上の鶏」は、森鷗外の訳で、有名になりたかった裁縫職プロルが、塔の上の銅の鶏をこっそり盗んで人々の話題をさらい満足するが、いつしか人々は興味を失い、不満になったプロルがしつこく話題にするので捕まってしまうという話だ。「現実的」と概説にあるのは、「だれの中にもある」(p 99)という意味である。「あやまったヒロイズム」と教授資料に書かれている。「一般の政治家やその他の、みにくい、しかも偽装された権力意思ほどおそろしく、世に害のあるものはないが、プロルはかわいそうな犠牲者である」とある。有名になりたいための盗みをエゴイズムとはせず、「ヒロイズム」「権力への意志」として峻別しているのは注意すべきだ。原作者オイレンベルクが良いのか鷗外が良いのか、おもしろくて魅力的な名訳である。これら短編三作品によって人間の内面を多角的に見つめようとしたという編纂の意図はよくわかる。「メロス」は揺れを通して善を行い、「下人」は揺れを通して結局責任を転嫁して悪を行い、「プロル」は揺れることなく悪を行うのである。

 「指導過程」によると、これら三作品を八時間で行うとある。一作品三時間で、第一時が通読、用語、構成、第二時がテーマ、第三時が表現という流れである。どの時間も検討、討議、話し合いで行われる。当時の高校生がいかに優れていたか(?)よくわかる。実際にこの時間配分で可能だったのかはわからないが、第一時で全体を把握してから討議を行う姿勢は共感できる。現在主流の教員の計画のもとに、プリントや黒板を使って、前から細かく解説していく授業に読書の喜びはあるのだろうか。そうしなければなければならないほどに、現在は読解力が落ちてしまっているのだろうか。 

 注釈は十四語。この教授資料には、エゴイズムの文字が見える。エゴイズムが使われた文を以下に全て抜粋する。

 

1「テーマは、結局みにくいエゴイズムの強調ということになり」

2「彼の好んで読んだ「今昔物語」の巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語」の原文に近代的な味を加え、下人の心理の推移を主題にして人間の生きんがためのエゴイズムをあばいたものである。」(傍線筆者)

3「人間の中につねに冷酷なエゴの葛藤を見る芥川の冷めた目は」

4「今まで対等な立場にあった老婆を征服し、目的を達したので、得意と満足が彼の心を占めるようになる。ここにエゴイズムが悪の衣をまとって頭をもたげるすきが生じ、老婆の「この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」という答えにもう一度憎悪を感じるが、」

5「すでに条件がそろった上に、答弁の中に現れた老婆のエゴイズムに誘われて、下人の心に、頭をもたげていたエゴイズムが爆発し、悪の実行となる。」

6「人間の心の奥にある暗いエゴイズムを書いている。善にも悪にも徹底できない、中途半端な人間のあわれな姿を良心とエゴイズムとの葛藤を通して作者はシニックに眺めているのである。その目の中にはまた深い哀感が流れている。そして、結局人間を最後に支配しているのはエゴイズムなのだという深い諦観がそこにある。」(傍線筆者)

7「疲弊した時代における、追いつめられた人間の持つエゴイズムを描いている。」

8「上流育ちの白樺派と異なり、龍之介ら小市民階級の出身者は、人間性を現実の上に深くえぐることによって、そこに共通するエゴイズムを見出し、宿命的な人間のわびしさを感じることが多かった。」

 

(参考文献)書名はほぼ「芥川龍之介」なので割愛し、著者名のみを記す。

文藝春秋、大正文学研究会、吉田精一、岩上順一、下島 勲、山岸外史、片岡良一、恒藤 恭、宇野浩二中村真一郎、文芸別冊

※ 吉田精一中村真一郎の名は二度見える。

 

 私が注目しているのは、2であるが、この「下人の心理の推移を主題にして人間の生きんがためのエゴイズムをあばいたものである。」は、「下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。思うに彼が自らの恋愛に当たって痛切に体験した、養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと、醜いながらも、生きんがためにはそれが如何ともすることができない事実であるという実感が、この作をなした動機の一部であったに相違ない。もし理想主義の作家であったならば、‥(略)‥しかし龍之介は却って、熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる。善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし、そこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめている。」(「芥川龍之介吉田精一三省堂・1942 傍線筆者)から採られたものと思われる。教科書としては同じ三省堂から出ている吉田氏の論を無視することはできなかったのであろう。6、7も同じ視点で書かれている。しかしこの教授資料には、エゴイズムの根拠として別の視点が示されている箇所がある。8の当時の文壇の傾向からの分析が一つ、もちろんこれは参考的なものでしかないが、注目すべきは4である。4は文脈からの指摘であり、一考に値する。得意と満足がエゴイズムの生まれる条件として示されているのだ。5と合わせると、優位性の保持をエゴイズムと呼んでいるのであり、2の吉田氏の「生きんがため」という観点とは根本的に異なる。むしろ、仮にエゴイズムという言葉を使うならば、優位性の保持の方がふさわしい気がする。「生きんがため」飢え死にを避けるための盗みを果たしてエゴイズムと呼ぶのか、私は納得できない。

 「生きるため」ではなく、「生きんがため」というフレーズは、「ん」の古典文法上の正確さだけではなく、撥音便の耳障りの良さも相まって、この後長く「羅生門」解釈を支配していく。