maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」六 「レポートの書き方」

原典である「レポートの書き方」と比較すると

 

(これも)高等学校の学生としてはきわめてすぐれたレポートである。(前の「ロビンソンとガリバアー」が主として社会的観点に立っているのに対し、これは)作品に即してその内面的意味をくみあげ、美的価値を認識することを主眼としている。(全然ことなった行き方である。)この論文では非常に原文をていねいに読み、構成や技術をこまかに調べている所がよい。又人間性の解釈も中に深いところをついている。ただ(前の論文とくらべて目立つところは)参考資料をあげていないことだ。

 

というように、 「ロビンソンとガリバアー」を書いた学生と比較する表現が省かれているだけで、「終らぬように心がけなければならない。」までは同じである。至文堂の「レポートの書き方」ではこれで終わっているが、教科書の方はこの後、「さていっぱんによいレポートとは、」という後半が補足されている。この部分は、「文章講座」河出書房1955年(昭和三〇年)から採られたものか、加筆なのかは確認が取れていないが、「羅生門論2」において問題とする内容ではないので、これ以上触れない。

 

 では、本題に戻る。高校生のレポートで私が注目した部分を次に抜粋する。

1 「「羅生門」のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。」

2 「普通にいわれているように、ただ人間のエゴイズムを描いているのではなく、善にも悪にも徹底し得ない不安定な、不確実な人間のあわれな姿を、悪に激しく反対する良心ーー正義感(後でもいうが、この場合の正義感は、世の多くの正義感と同様に、決して純粋なものではない。)と、他人を押しのけてもなんでも生きようとする強いエゴイズムとの葛藤を通して描いている」

3 「あまり強く社会のことを頭におかないほうが安全である」

 

 2の表現は、高校生のレポートの二年前、昭和二三年に出版された、吉田氏の『芥川竜之介』(三省堂)中の

「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし」の表現に非常に近い。つまり、吉田氏の「だれがどこでいっているか、こういうためには、そういう書物を見ていなければならないのだから、それをあげるべきである」の「そういう書物」とは吉田氏の書物で「だれ」は吉田氏を指すことになるのだ。しかし、そのことは明らかにされていないから、最初に書かれた、明治書院の教科書の説明の「ここに一高校生のすぐれたレポートがあり、それについて吉田精一氏が適切な批判と注意を加え」と合わせると、明治書院を合わせて、まるで四人以上が、「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間のエゴイズム」を支持しているように見える。「普通」に対する否定や疑問がない以上、主題をエゴイズムと考えるのが「普通」だと考えるのが「適切」だと教科書は言っているである。

 3については、同じく「レポートの書き方」を昭和三八年から採録した中央図書の教科書の指導書(p164~165教科書図書館所蔵)には【参考資料】として

 

吉田精一著「芥川龍之介の芸術と生涯」(河出書房刊)1951から

「この作品に対して別途の見解をもつ評論がある。岩上順一は龍之介のイデエを別の場所に見た。この作は「あらゆる人間は饑の前には暴力的な行為に狩り立てられるものであるといふこと」から、「当時の労働運動の根拠をこの下人の行為に設定し」「老婆の形象の中には暴力的行為の理論に対する否定が含められている」といふ。即ち経済的困窮を理由にして、暴力的に、非合法的に、他人からその所有物を強奪しようとする論理は論理的に破滅せざるを得ないー「この『饑』の論理は大正初年に於けるアナルヒスムの論理であつたのだ。芥川は下人の姿のなかに、当時のアナアキストの思想と行動とを表現した。しかしそれと同時に、かかるアナルヒスムは、それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ないではないかと芥川は考えた。」これがこの作のテエマでありイデエの本質的方向だ(歴史文学論)といふのである。然し、テエマとかイデエとかが、自覚的な作者の意図をさすものとすれば、このような考え方は「羅生門」のテエマとは云ひ得ない。龍之介を正確に理解しようとする我々はこのやうな見解をそのまま受け入れることは出来ないのである。」

を載せている。「芥川龍之介の芸術と生涯」は現在国会図書館に所蔵はないが、これより早く出版された「芥川竜之介 改訂版」吉田精一三省堂、1948のp72~73に同じ文章が掲載されていた。こちらには、最後の「龍之介を正確に~」という文の前に「もしこのやうな解釋が後世の評論家によつて行はれたと知つたならば、龍之介はさぞびつくりするにちがひない。それは作品に寓意的な意味を増す一個の面白い解釋には相違ないけれども。」という言葉があるのが違うだけである。

 というように、「あまり強く社会のことを頭におかないほうが安全である」も、吉田氏の考えに近い。言い方を変えれば、この高校生のレポートは、吉田氏の考えを広めるのに利用されたのではないか、根性の悪い私はそんなふうに考えてしまう。もちろん、「レポートの書き方」という書物に採用したのは、教科書を意識したものではなかった。だが、自分の論を引いたと思われる作品を、レポートの例として使うことはよく無かったのではないかと思う。結果としてその後教科書に採用され、しかも吉田氏の批評分析まで載ることになってしまった。私は、吉田氏の考えと同じであるテーマの部分にほとんどの文を割くのではなく、高校生の示した「動」と「静」との対照表現の分析をこそ、細かな批評の対象として欲しかったと思う。こうした作り手の立場に立った表現分析まで行うことは大切なことだからである。舞台裏を見せられたような、不審な思いも吉田氏に抱かなくて済んだだろう。

 こういう、吉田氏の論を支えるような教科書の編成ではなく、あえて違う視点の二つのレポートを紹介し、さらに別の見方はないかと迫る方法もあるはずだ。学習した生徒は、二つの違う見方を示された後と、一つの見方への支持を表明された後では、新しい発想の出る可能性が違ってくるのではないか。このように「羅生門」を扱った最初の教科書が、テーマをエゴイズムとはっきり示したことは、この後「羅生門」の解釈を限定したものに絞っていく。明治書院が採用をやめた昭和三八年には中央図書が高校生のレポートとともに採用を始め、昭和四七年まで(幸田国広氏の「定番教材の誕生」p15の年譜による)続いていった。