以下は、教科書図書館(東京)所蔵の、「羅生門」を採用した全教科書の指導書(教授資料)の一覧である。

内容分析は、表の着色した版について小林が行っている。教科書図書館にあるすべての会社について、主にその初版を分析したが、改訂版も分析した場合は2という数字を加えた。→の数字は開始年を示し、←の数字は終了年を示す。単なる→は改訂を重ねながら継続していることを示すが、内容も同じであるという意味ではない。
【発行開始年】幸田国広氏の研究による。角川に関してはより古いものを教科書図書館で見つけたので修正した。
【各説】指導書の編集者が支持をしている考えは◎、参考記載は○、不支持は×とした。エゴイズム論を支持している場合は青、参考として掲載しているが結果として支持とみなされる表現の場合は水色、批判している場合は赤、触れていないまたは単なる並列参考の場合は灰色に色分けをした。
【発表順各説の要点と出典】
竹内眞説=生きんが為のエゴイズムの無慈悲(「芥川龍之介の研究」(1934.2大同館書店)
岩上順一説=当時のアナアキストの思想と行動を表現した。しかし、それと同時に、かかるアナルキスムは、それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ない。(『歴史文学論』1942.3 中央公論社)
吉田精一説=下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいている。(『芥川龍之介』1942.11三省堂)
宇野浩二説=「羅生門」がエゴイズムだとは「唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云うこと」(「芥川龍之介」1951)
長野嘗一説=生存のためのエゴイズム(『古典と近代作家』1967有朋堂)
駒尺喜美説=善と悪との矛盾体である人間を、人間現実をそのままに示しだそうとした。(『芥川龍之介の世界』1967 法政大学出版会)
小堀桂一郎説=森鴎外の「橋の下」の主題の換骨奪胎。(「日本文学研究資料叢書」1968)
平岡敏夫説=羅生門がかもし出す、王朝的、というよりかなりエキゾチックな雰囲気の世界それ自体。(『国語I指導資料』筑摩書房1970)
大岡昇平説=ぎりぎり状況のなかで露呈するエゴイズム
(「芥川龍之介」1975?)
三好行雄説=人間存在そのものが、人間であるがゆえに永遠に担いつづけねばならない痛みであり、生きてあることにまつわるさまざまな悪や苦悩の根源である。無明論。(『芥川龍之介論』1976 筑摩書房)
福田恒存説=人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる。エゴイズムとは無関係である。(「芥川龍之介と太宰治」1977レグルス文庫)
伊豆利彦説=エゴイズムではなく、偽善と虚飾を誇示することに反発し、真実の人間的な救済を求めた(「文学」1978)
独自説=エゴイズム論以外の考えで、特に引用を示さずに編集者が述べているものを独自説とした。
【参考教材】「「羅生門」について」という高校生のレポート(至文堂1952・河出書房1955)を採録している場合に、吉田氏の文を併記しての採用は◎、単独採用は○、指導書内に補足は△とした。
【設問と解答】設問や解答例の出典を示した。各社指導書から切り離して別冊子にした可能性もあるので調べ直す必要がある。
1 一覧表の分析
① 一九五〇年代六〇年代
数研出版は選択科目であるが、必修科目の三社は、全て吉田氏のエゴイズム論を採用している。その一社である三省堂は、1942年に吉田精一の「芥川竜之介」を刊行している。明治書院と中央図書の二社が教科書に高校生の「羅生門について」を採録したことは注目に値する。この高校生のレポートは、明治書院では「ここに一高校生のすぐれたレポートがあり」と紹介し、本文は「「羅生門」のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。」から始まる。レポートの後には「「羅生門について」は、高等学校の学生としてはきわめてすぐれたレポートである。」と吉田精一氏の「適切な批判と注意」が始まる。すると多くの高校生は、「羅生門」のテーマはエゴイズムなのだと思い込むだろう。また、社会性を頭におかない方が良いと言う高校生の考えも、先行して発表した岩上説を否定する吉田氏と同じ考えだ。こうした誘導観賞が他の教材でも当時行われていたのかは知らないが、あまり良い方法とは言えないだろう。
それ以外にも腑に落ちない点がある。レポートの作者である高校生についてである。吉田は「「羅生門」のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。」というのが、その「普通いわれている。」のは、だれがどこでいっているか、こういうためには、そういう書物を見ていなければならないのだから、それをあげるべきである。」「それをひくのが礼儀である。」と書いている。「だれ」は吉田なのだから、暗に吉田精一の説であると書くように指導しているようなものであるが、違和感はそれに対してだけではない。吉田自身がこの高校生が「だれ」であるか示していないのだ。「それをひくのが礼儀である」と言う吉田氏自らの言葉に反する。レポートの内容はここでは割愛するが、人間について「真理の貯蔵所にして不確実と誤謬の排泄腔、宇宙の栄光にして同時に廃物。」と「パンセ」から引用していると書けば、そのレベルの察しはつくであろう。私はこのレポートの作者を知りたくて、国会図書館の司書さんの協力を得て辿り着いたのは、昭和二十六年(1951年)1月から2月にかけて東京都立H高校一年生の「短編小説」の授業で、増淵恒吉先生指導のもと行われ、「あるクラスの担当班が、作品研究をまとめ、吉田精一氏の「レポートの書き方」に掲載され、更に検定教科書にも採録されたことがある。」(増淵垣吉「VI 国語教育五十年」(pp.285-300)内のpp.296-297)ということがわかった。私は、H高校、東京都高等学校国語教育研究会事務局に問い合わせたが、保存は確認できなかった。増淵氏と吉田氏とは親交があったのだろう。「理解と鑑賞のための日本文学史」(金子書房, 1955) は吉田精一、増淵恒吉の共著である。増淵氏の生徒が書いたレポートが吉田氏に渡ったと考えるのが自然だろう。このレポートの作者や作成経緯が吉田氏にわからないはずがない。プライバシーを配慮しつつ礼を尽くすべきであった。「羅生門」が初めて教科書に採られる六年も前にこうした授業が行われ、高校生がレポートを作成していたのは賞賛に値すべきことである。
疑問はそれだけではない。高校生のレポートは「静と動との巧妙な変化」を指摘しているが、「現代文学鑑賞大事典」(明治書院1965)には「芥川龍之介」の項に、「羅生門」は「吉田精一の指摘もあるように、全体の構成は静・動の鮮やかな対照で統一され」とある。執筆者一覧に、平岡敏夫、三好行雄、吉田精一の名が見える以上、吉田氏は当然この項目の編纂に関わっているはずだ。吉田氏自身が明治書院の教科書で、
参考書を剽窃したり、資料の孫引きをしたり、ダイジェスト版をでっちあげるなど、一口でいえば、他人の意見を自分の意見らしく見せかけようとするもの、また自己の結論のつごうのよいように資料をゆがめたと思われるものなどの類は、もっともいとわしい。
としていたはずではないか。
以上から考えられるのは、
1 吉田氏は、高校生の作文に自分の「静と動」説を付け加え、高校生の作文として発表した。
2 吉田氏は、高校生の「静と動」説を自分の説とした。
3 吉田氏は、「エゴイズム」と、先行文献とは違う見方をしている「にきび」についても先行文献の提示を求めたが、「静と動」についてはあえて求めなかった。
4 吉田氏は、関わるべき「現代文学鑑賞大事典」の校正に関わらなかったため、不正確な記述になった。
のいずれかである。
② 1970年代
出版は八社に増える。内エゴイズム論は六社、反エゴイズム論は二社である。多くの会社が、エゴイズム論を支持している。70年代に一挙にエゴイズム論が広がった可能性がある。同時に反エゴイズム論も出てきた。筑摩書房である。六人の説を紹介し、エゴイズムを否定した上で、「羅生門の醸し出す世界」を主題とする。これは、エゴイズムの肯定否定や表裏一体というエゴイズム論とは画し、表現そのものを味わおうという立場である。それを、吉田氏に師事した平岡氏が指導書で示したというところにも私は魅かれた。この考えはこの後も数社で共有される。平岡氏のように先行研究をできるだけ多く示した後、それに含まれない自説を披露するのは指導書として最も望ましいものではないかと私は思う。私も教員としてかくありたいと思う。ただ、平岡論を含め主題と話題の違いが曖昧な主題提示のものがある。両者の違いは区別すべきだ。話題は語で、主題は文で現すべきだと私は思っている。
もう一社注目すべきは角川書店である。参考文献は全く載せず「センチメンタル」を主題としている。状況によって変化し得る内面を一語で表したのがこの言葉だと私は思うし、70年代としては画期的だった。「センチメンタル」は一九九七年に出された岩波書店の「芥川龍之介全集」二三に収められた「Defendence for “Rasho-mon”」に記された内容に相応しいと思う。光村図書も、判断は外部からの刺激、他人の論理によってどうにでも変わり得るものだという意見を述べている。素晴らしい指摘なのに、光村は主題として吉田説を採っている。70年代は、主題は吉田説が主流で、その批判や編集者の意見は後から遠慮がちに述べるというのが多い気がする。
③ 1980年代
1982年に十二社が採用するという「羅生門」全盛期を迎える。分析できたのは四社であるが、混沌としてくる。つまり、相矛盾する論を肯定したままであったり、最初肯定した論を後で否定したり、エゴイズムを主題にしようと努力するが、収まりきらないものがあり、収集がつかなくなり複数の論を羅列した印象を受けた。特筆すべきは桐原書店が「Defendence for “Rasho-mon”」を参考文献に挙げているである。しかも「主題」としている。が、訳を全く載せず、資料の一番最後にひっそりと置いてあるのは不思議で残念だ。主題という以上英文の内容を理解しているはずなのに、編集者の自説と全く無関係なのも不思議だ。
2 エゴイズム論の伝播(仮説)
偏見に満ちた私の仮説ではあるが、おそらく以下の流れでエゴイズム論が広がって行ったのではなかろうか。
⓪黎明期 1930・40年代
芥川龍之介研究が始まる。先行文献は多い中、芥川自死の七年後、1934年に竹内眞が「芥川龍之介の研究」(大同館)をまとめる。序文に鹽田良平はこれまで纏まった業績が現れていなかったと述べている。褒め言葉ではあろうが、まとまった芥川研究の最も古いものの一つと思われる。実証主義的に資料を蒐集し、観賞的態度を加味したと自序にある。龍之介の書簡も既に扱われ、親族に会って話を聞いている。「作品論」を章立てし、作品分析を行っている。「羅生門時代」の項目に、篠田太郎氏の指摘(「史的唯物論より見たる近代日本文學」)として「生きんが為のエゴイズムの無慈悲」を紹介し賛同している(p232)。この表現は吉田氏の有名な「生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズム」表現より八年以上早いのであるが、竹内氏や篠田氏の研究に触れている指導書は今まで私は見たことがない。指導書掲載の中で最も古いものは1942年に岩上順一氏が著した『歴史文学論』(中央公論社)である。当時のアナアキストの思想と行動を表現したとしている。同42年、吉田精一氏は『芥川龍之介』(三省堂)で「下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである」としている。
①初期 1950・60年代
数研出版が選択であったのに対し、明治書院が必修としてここに「羅生門」の教科書採用が始まった。幸田国広氏によると、戦前からは「戯作三昧」「手巾」「鼻」「蜜柑」などが採られていた。時代は作品研究より作家研究に主眼があり、作家の経歴を中心に研究が進んだと思われる。岩上順一説は社会主義的な性格が強く採用されなかったのだろう。指導書に吉田説しか与えられず、高校生のレポートや吉田説を答えさせる設問で、吉田説が確たるものになっていった。
②拡大期 70年代
九社が「羅生門」を掲載する。先行する教科書会社の指導書を参考に後発の会社が吉田説を採用する。吉田氏が現代文や古文の教科書の編纂をし、文學教育界で地位を築き、教科書会社に吉田説を否定しづらい雰囲気があったのかもしれない。吉田精一が79年に瑞宝章を受勲する。
③最盛期 80年代
82年度の改訂で「羅生門」の採用は十二社という最盛期を迎える。吉田氏は84年に逝去、指導書にエゴイズム論以外も出てくる。また、鑑賞者主体の指導が進み、一つに絞るのを嫌う傾向が教育現場に生まれた。一方、高校時代にエゴイズム論で育った教員や、最初エゴイズム論で教えた教員がエゴイズム論を再生産していった可能性がある。
以上、⓪以外はあえて検証もないまま私の考えを述べたことを付け加えておく。実際は、もっと複雑な要素が絡み、エゴイズム論は広がって行ったのだろう。なぜこのような作業が必要かと言うと、「羅生門」エゴイズム論は歴史的な過ちであると私は思っている。過ちを繰り返さないためには検証をする必要があると思うのだ。
さて、わからないのはなぜエゴイズム論が採用されたのかということだ。竹内眞氏は、あらすじの要約から篠田太郎氏は導いたと推察しているが、吉田氏のエゴイズム論は、芥川の書簡を論拠としている。各社の指導書にも書簡は度々登場する。それらに関して以下の疑問が浮かぶ。
1 発表の八ヶ月前の書簡から、小説の主題を探る事は正しいか
2 書簡に使われた抽象的な言葉が、芥川の失恋事件のことを指すと断定できるのか
3 書簡中の「エゴイズム」という言葉が、芥川の体験のどの部分を具体的に指すのか
4 書簡中、時系列が不自然な部分の扱いはどうするか
5 書簡以前に「羅生門」の草稿が書かれていた可能性が指摘されているがどう考えるか
6 芥川の体験から小説を読み解こうとする作業は、「現状を懸け離れた」小説を書こうという芥川の言葉と矛盾しないか
7 芥川が残した「Defendence for “Rasho-mon”」の「It is "moral" that l wished to handle.According to my opinion“moral"(at least"moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.」との整合性をどうするか
2024年の時点から1942年に書かれた文を批判するのはフェアではないが、根拠たる資料は吉田氏も持っていたはずだし、現在もエゴイズム論を支持する人もいると思うので詳述する。次の①~④は吉田論を支持する数研出版が二〇〇六年に掲載した芥川の書簡である。今まで他の指導書でも度々引用されてはいるが、最も詳しいものに属し、かつ2000年代にもなお引用され続けていたことを示すために、数研出版のものを示す。
①大正四年二月二八日、井川恭宛書簡より
ある女を昔から知ってゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になってはじめて僕がその女を愛してゐる事を知った しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかった それからその女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかった その内にそれらの事が少しづつ知れて来た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知った
僕は求婚しやうと思った そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかった しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた
家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた
あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云った それから不愉快な気まづい日が何日もつヾいた其中に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は来なかった
②大正四年三月九日、井川恭宛書簡より
イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない周囲は醜い 自己も醜いそしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい
しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をっゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある 僕はどうすればいヽのだかわからない
③同年三月十二日、井川恭宛書簡より
僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな気かする
しかし不幸にしてその新しい国には醜い物ばかりであった 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持ってゐる、そして人の持ってゐる美しい物を更によく知る事が出来たからである しかも又僕の持ってゐる そして人の持ってゐる醜い物を更にまたよく知る事が出来たからである 僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに強くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によって愛せらるヽ事なくとも生存苦をなぐさめたい
④同年五月二日、山本喜誉司宛書簡より
此頃は少しおちついてゐます しかし やっぱり淋しくって仕方がありません 何時この淋しさがわすれられるか 誰がこの淋しさを忘れさせてくれるか
それは僕にとって全く「鎖されたる書物」です 僕は社会に対してエゴイストです(愛国心と云ふやうなものも僕にはエゴの拡大としてのみ意味があると思はれます)そしてその主張の中に強みも弱みもあると思ってゐます その弱みと云ふのは個人の孤立(イゴイズムから来る必然の帰結としで《ママ》はないのですが)と云ふ事で強みと云ふのは個人の自由と云ふ事です 僕はこの弱みをー孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思ってゐます
すべての属性を(位爵 金力 学力等の一切)離れた霊魂そのものを愛する愛の外にないと思ってゐます
この愛の焔を通過してはじめて二つの霊魂は全き融和を得る事が出来るのではないでせうか この愛の焔に燃されてはじめて個人の隔壁は消滅する事が出来るのではないでせうか 僕が「餓渇く如く」求めてゐる心はこの愛です
※書簡の引用は、『芥川龍之介全集』第十七巻(一九九七・三 岩波書店)による。
書簡②は中央図書出版社の昭和三十八年版にも引用されたもので、引用の定番と言って差し支えない。数研はさらに書簡①で失恋の具体的経緯を、③④でエゴイズムの用例を他の書簡で示そうとしている。「エゴイズムの意味が多義的であったことが知られる。」と解説にあったが、「多義」の内容について数研は具体的に触れていないので、私なりに述べたい。
②の書簡では「イゴイズム」は「独占欲」に近いと思う。③には引用文の前に「外面的な事件は何事もなく完ってしまった」とあるので、書簡①を受けてだと考えられるが、文脈がないので、②と同様に独占欲の可能性はあるが、虚栄心と性欲以外だということしかわからない。④の「エゴイスト」ははっきりと「個人主義者」と言って差し支えない。「利己主義者」ではない。夏目漱石は大正三年十一月二十五日の公演で「個人主義の必要」と「個人主義の淋しさ」とを述べた。個人主義が自由と引き換えに陥る孤立を癒すものとして、芥川は愛の必要性を述べたのだ。恩師広瀬雄への明治三十二年の手紙に「あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以来の事と御宥免下さるべく候」(「芥川龍之介全集」第十七巻p10)とある。樗牛のことについては私は全く疎いが、Wikipediaによると、明治三四年に「ニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した」とあった。
井川恭は京都大学寄宿舎に、山本喜誉司は牛込区の下宿に住んでいて、多くの書簡をやりとりしているが、資料②③④はわかりにくい。どの書簡の引用も全文ではない。しかし全文を読んでもわかりにくさは変わらない。その原因の一つは、書簡は返事であり、もらった書簡の内容を繰り返したり要約することはない、という書簡の性質からくるものだ。従って文脈を辿るのが難しい。人が電話をかけているのを聞いているとイラッとくるのと同じである。原因の二つ目は、どの書簡も、何かをきっかけに書かれたと思うが、具体的な出来事をわざと避けているようにしか思えない表現をとっていることだ。友人だけにわかる表現をとっている気がする。
このようにわかりにくい書簡をもとに、「羅生門」の主題を考えて良いのか疑問である。吉田精一氏は芥川の書簡の「周囲は醜い 自分も醜い」を「養父母や彼自身のエゴイズムの醜さ」と言い換えている。自分の醜さについて吉田氏は具体的に触れていないが、醜いとするなら、幼友達に婚約が決まったと知って初めて彼女への愛に気づいて、彼女や婚約者の戸惑いを顧みず結婚を申し込もうと考えることであり、彼女への独占欲だとしても、果たして「周囲」を「養父母」に限定してよいのであろうか。「周囲」を私は、「養父母」だけではなく実父母も含めて考えている。書簡①の抜粋から省略された後に、ある家の細君が「女は僕と従兄妹同士だ」と言ったとある。またその細君は「錦絵の一枚にその女に似た顔があった」のを見て「誰かに眼が似てゐるが思出せない」と言い、「僕は笑った けれどもさびしかった」とある。女は実父の家の近くに住んでいた。つまり私は、この書簡から龍之介が自らの出生の秘密を疑っていた可能性を感じるのだ。女の父が、龍之介の本当の父かも知れない。結婚に猛反対する理由も納得できる。芥川が「周囲」という言葉を使うのもわかる。「太宰と芥川」(福田恒存、新潮社、1948)に描かれたこと(p103)が真実か私にはわからないが、書簡の後半は芥川自身の生存苦と自死の可能性について語られているのだ。失恋がきっかけの文としては、書簡②から重すぎるものを私は感じる。
書簡③の「僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズム」を見れば、私は書簡の半年前に書かれた「青年と死」を連想する。「青年と死」では前半に相手不明の性愛、後半に死への願望が描かれている。相手不明というのも出生に関する疑いを思わせる。しかし、「羅生門」に愛が描かれているか、ヴァニティ、自惚れが描かれているか、死への願望が描かれているか。私は否としか言えない。
私は書簡全文を読み直してみた。心に残ったのは「さみしい」という言葉だ。書簡①で一回、②で二回、③で二回、④で八回使われる。さらに書簡を読み直すと、「さびしさ」は明治四三年、芥川が一九才の時、京都大学に進学した山本喜譽司に出したものに既に見える。「生存苦の寂莫」と言い、「自己の存在を失ふ」ことで神に復讐するというのだから、とても重大なことが彼にあるはずだ。
また書簡に、「愛」の語が頻繁に見えるが、芥川は「愛」を女性との恋愛に限定して使っている訳ではない。「今までぼくは彼等の愛の中に生きた これからは彼等をぼくの愛の中に生かしてやる たとへその境に彼等がぼくをにくみぼくが彼等をにくむ事があらうとも」(巻二十三p260)と、友人達に対して恋愛とは違う「愛」の使用例がある。
また、書簡④は「正直に云へば僕は反省的な理性に煩わされる事なしに云はば、最も純に愛する事が出来たのは君を愛した時だけだつたと云ふ気がしてゐます 夜はいつでもゐます ひまがあったらいらっしゃい」で終わっている。この部分だけを読むと同性愛的なものを感じるが、この「愛」は書簡④の省略された後半部分に書かれた「相互の全き理解、しかも理知を超越した不可思議な理解」のことかもしれない。いずれにしても女性に対する愛でないことは確かだ。
ちなみに書簡④に「Yの事は一日一日と忘れてゆきます。」とあるが、Yは書簡①の女、吉田弥生である可能性は高い。また、書簡④の中ほどには「僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奥さんなんでせう 少しはいからな会では時々あひます」とある。また、「愛を求める資格が又大抵な人に対して僕には欠けてゐる」「ただ淋しいので僕のゆめにみてゐる人の名を時々文ちゃんにして見るだけ」「文ちゃんは嫌な方ぢゃありません」とある。ちなみに「文ちゃん」は塚本文、後の妻であり、親友山本喜誉司の実妹だ。参考資料の書簡④にはそれらのことは全て省略されている。確かに「羅生門」発表の半年前に書かれたそれら書簡の内容は、恋愛の痛手が「羅生門」を書かせたという主張には相応しくない。
時系列に関して整合性の取れないものがある。参考資料では省略されているが、書簡③は「僕は愛の形をして《ママ》hungerを恐れた それから結婚の《ママ》云ふ事に至るまでの間(可成長い 少なくとも三年はある)の相互の精神的肉体的の変化を恐れた 最後に最卑しむべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の来る事を恐れた」から始まるが、これが何を意味するのかわからない。文法的にも違和感があるし、相手と少なくとも今は気持ちが通じ合っているが、自分は結婚までの三年間も愛し続ける自信がないというような文面に見える。誰のことを言っているのかわからない。吉田弥生なら内容が合わないし、塚本文ならもっと後の日付でないといけない。
さらに草稿に関して、「『羅生門』草稿ノート」をめぐる問題」(明治大学大学院二〇一一年五月二十日)で早澤正人氏は、「羅生門」の「執筆時期を〈大正三年末頃〉とする研究者もいる。その代表的な人物が海老井英次」であり、さらに「「大正三年十二月」(初稿原稿)と「大正四年九月」(再稿原稿)の二度にわたって脱稿されたとする新説を提出した」と紹介している。「従来の定説を覆すほどには至っていない」としながらも、芥川の初期作品の表現描写の特徴から、「ノートが大正三年に書かれた可能性も射程に入れなくてはいけない」としている。そうならば、失恋事件は関係なくなる。
もちろん、草稿ノートと「羅生門」では多くの点が異なっているから、草稿ノートと「羅生門」は別物だとしても、芥川が「あの頃の自分のこと」で語った、「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)」は無視できない。であるなら、「現状を懸け離れた」小説を理解するのに、当時の書簡から読み取れる苦悩を当てはめるのは、論理的に間違っているのではないか。書簡には関わらず、まず「羅生門」の内容から考えられる主題を導き出し、次に当時の書簡のテーマと重なるものを省く方が論理的なのではないのか。
既述の桐原書店教授資料は「読解の多様性を導く」原因を探ろうとしたが、この書簡群と関連づけようとすることこそが多様性を生む原因ではなかろうかと私は思う。手紙という、本人たちしか知らない、文脈がわかりづらく、「イゴイズム」「愛」「生存苦」「神」「復讐」「さみしさ」をキーワードとする文章と、それらを全く含まない、書簡から八ヶ月後に発表された「羅生門」という小説とを関連づけさせるということが本当に必要なことなのか。無関係のものを関係付けさせる無意味な作業こそが問題を混乱させ、挙げ句の果ては多様性という無責任な方向に導いている元凶といえないだろうか。掛詞を修辞法とする伝統を持つ日本人は、言葉の意味の二重性を楽しんできた。私たちに必要なのは、込められた意味の多義性を理解することであり、読者の主体性や解釈の多様性を認めることでは決してない。
私はこれらの書簡はむしろ「青年と死」を考える上に参考にすべきだと思うし、「今昔物語集」の表現との差異について考える方が「羅生門」を読み解くのに近いと考える。芥川が書き変えたのは、そこに彼の意思があり、必然性があったと思うからである。
また、芥川の書いたものを無視できないのであるならば、数研版指導書の十年前の一九九七年に出された岩波書店の「芥川龍之介全集」に収められた「Defendence for “Rasho-mon”」も同様のはずだ。しかし、五十年前と同様に書簡②が重要視され、「Defendence for “Rasho-mon”」は無視される。なぜそういうことが起こるのだろうか。
「おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」をエゴイズム論の根拠にするならば、老婆の登場の意味がなくなる。極限状況はすでに物語の前提にあるからだ。私は、助からんがための老婆の言い訳が老婆を被害者にするというパラドックスと、当時内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件の判決と共通する老婆と下人の、悪いことをした者に悪いことをしても大目に見られるという論理に対する皮肉が『羅生門』のモチーフではないかと最初考えた。『羅生門』の死体を描くのに参考にしただろうと以前から指摘され指導書の参考資料によく掲載されている医学部の解剖見学の日の三日後の書簡で内閣のことを話題にしている。また「或る阿呆の一生」の中にも、前述の医学部見学を描いた「九 死体」があるが、その三つ後の話に「十二 軍港」がある。「あすこに『金剛』も見えるでせう」の記述が見える。「金剛」はシーメンス事件の発端になった軍艦の名である。しかし、これも書簡や日記や他の作品からの類推に過ぎない。私は自分の仮説を主張したいのではなく、吉田氏の指摘した書簡以外に様々な書簡があり、日記があり、それらから吉田氏の説以外のものが組み立てられることを示したかったのだ。
その後私は、芥川の「ノート」に書かれた「defence for “rasho-mon”」に出会うが、そこにはこう記されている。
defence for “rasho-mon”
“Rasho-mon” is a short story in which I wished to “verkörpern” a part of my Lebensanschauung-if I have some Lebensanschauung,--゛but not a piece produced merely out of “asobi-mood”. It is “mora1” that I wished to handle. According to my opinion, “mora1”(at least, “moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.
『羅生門』は私の人生観―もし私に人生観があるとしたら―の一部を描こうとした小説である。しかし、単に「遊びムード」から制作された作品だというのではない。これこそ私が扱いたかったモラルなのだ。私の考えとは、「モラル」(少なくとも凡人のモラル)は、その時々の状況で生まれるその時々の印象や感情の産物だということなのだ。 (訳小林)
「その時々の印象や感情」は、「Sentimentalisme」で物語の冒頭ですでに仄めかされていたのだった。悪を巡る目まぐるしい心の変化も全て「Sentimentalisme」なのだ。「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」という言葉も、老婆の言葉に触発された「Sentimentalisme」の結果なのだ。『ひょっとこ』のMetronome、『虱』のPre'curseur、Pharisienに見られたように、小説における芥川の原語使用は、主題と関連がある。モラルはその時々の状況で生まれるその時々の印象や感情の産物だということが『羅生門』の執筆意図だったのだ。
そうした目で、『羅生門』と発表の近い『虱』『鼻』を眺め直すと腑に落ちる。『羅生門』はモラルの基準を他者に依存する二者、『虱』は自身の基準を決して変えようとしない二者、『鼻』は変わる多数の他者の基準に依存する個人、という比較ができないか。芥川はそれぞれに冷笑を浴びせている。大正四年十一月から翌年五月にかけて半年の間に発表されたこれら三作を、「モラル三部作」と私は呼びたい。一作目ではモラルの流動を、二作目では固定したモラルの対立を、三作目では流動するにもかかわらず多数であることで得るモラルの優位を描く。
それらの今日的な意味に私は驚きを禁じ得ない。自身の基準を持たず、「みんながしているから」という無責任な理由づけを私たちは何回耳にしたことだろう。『虱』の、自己のモラルが理に反していても変えようとしない姿勢が戦争につながることを私たちは経験した。『鼻』の、原因を解消することでさらに多数から攻撃の対象とされるいじめを私たちは悲しいことに知っている。芥川は未来が予言できたのか。そうではない。世の中は百年前と同じなのだ。
三作でモラルについて多角的に描こうとしていたと考えると、やはり『羅生門』は極限状況におけるエゴイズムを言ったのではない。あえて言えば、「皆がしている」という正当化が、極限状況においても残っていたモラルさえ破壊するということを言ったのである。そうして相手の言葉に触発されて自分を正当化した論理が、翻って自らを追い詰めるということを言っているのである。「下人の行方は誰も知らない」という結びは、将来の彼への加害者を許さなければならないという論理に同じく下人も組み込まれていくことを暗示している。皮肉なループの予感は「鼻」とも共通している。
しかし主題は、悪を肯定する心から、悪を憎む心に、さらに再び悪を肯定する言葉に振れる原因なのである。 何よりも大切なことは、本文を精読し、部分の表現を全体から位置付けすることだ。そうすれば「羅生門」本文に見られなかった「エゴイズム」より、本文に表現された「Sentimentalism」の方がより全体を示す言葉として浮かび上がってくるはずだ。表現された言葉しか主題にならないと言っているのではない。象徴する言葉があればそれは無視できないと言っているのだ。
1976年、光村図書の指導書には
「下人の心に起こる是非善悪の判断は、自己の主体的な、論理的または倫理的基準によるのではなく、外部からの刺激、他人の論理によってどうにでも変わり得るものとして描かれている。ここで下人の置かれている状況は一種の極限状況であるにもかかわらず、奇怪な老婆の言動に触発されないかぎりは、生と死、善と悪いずれを選ぶ勇気も決断力もわいてこない。下人を黒洞々たる闇の中に追い立てた勇気は、老婆のもつ論理に動かされて生じたものである。だから、盗人となった下人の行く手に何が待ち構えているかによって、彼の勇気は容易に変質したり消滅したりすることが予想される。」(p75)
とある。が、残念ながら、「羅生門」の採録は九年間のみで、かつ、「主題」として吉田説を明記していた結果、光村図書の慧眼は広く影響を与えることはできなかった。また、伏線「Sentimentalism」と繋げるまでには至っていない。実は「Sentimentalism」は「羅生門」の隅々に顔を出しているのだ。羅生門を今の生徒にわかるように言い換えると墓地となろうか。「墓地」に「雨」「夜」が加わると、読者は「悪」の行われそうな設定であることは否めず、しかしその感じ方が合理的でないことも同時に理解できる。また、「死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。」には同意する読者は多いだろうし、老婆も「何ぼう悪い事かも知れぬ」と認めている。しかし、「人肉料理」(芥川龍之介全集22)に未定稿として、
その生命が存さない限り、それは屍体であるにしろ、人間と呼ぶ事は不可能です。 既に人間でないとすれば、俎上の牛肉や豚肉と選ぶ所がないのですから、当然道徳は人肉料理に、容喙する資格がありますまい、いや、現に今日でも、道徳は既にこの点では、寛大な態度を示してゐます。何故と云へば火葬の如き、又は屍体解剖の如き、いづれも実は人肉料理の或過程ではありませんか。猛火に焼かれる人肉にも、メスに切り裂かれる人肉にも、何等の義憤を感じない以上、人肉のスウプや人肉のハムに、道徳的嫌悪を感ずるのは、哂ふべき一種の感傷主義です。
とある。芥川が心からそう思っているのか、単なる論理として書いているのか、いつ書かれたのかは不明だが、ここには下人の判断と全く逆の論理が書かれている。我々の感じ方への懐疑である。
「Defendence for “Rasho-mon”」という擁護を書いたということは、周囲に意図が理解されていないことを芥川は感じ取っていたのだろう。『あの頃の自分のこと』(大正八)に「『羅生門』も(略)やつと活字になることが出来たが、六号批評にさへ上らなかつた。のみならず、久米も松岡も成瀬も口を揃へて悪く云つた。」とある。しかし、漱石に絶賛された「鼻」ではなく、「羅生門」を彼の第一短編集のタイトルにしている(大正六・五)ことを考えれば、芥川のこの作品に対する思い入れは強かったと思われる。
絶対的なものはなく、天気、場所、時間、他者の行動や言葉に影響を受けて刻々と変わっていく心理は、まさにSentimentalismに集約されるのである。