maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」二十二 数研出版教授資料 平成十八年(二〇〇六年)度版

 数研出版は、「日本現代文学選」(川副國基編著)で、昭和三十二年(一九五七年)に日本で最初に教科書に採用した会社である。今回の指導書では「羅生門」の多様な解釈について述べている。

 

「 洛中という世界

(略)仏像や仏具を打ち砕いて、それを薪として売るという行為も、ふたりの行為と非常によく似ている。(略)「今昔物語集』の元の話では、女の行為は露見し、女は罰せられるが、芥川の「羅生門」では、このような悪事が、見とがめられもせずにまかりとおっていることになる。洛中とは、そのような世界として造型されているのである。(略)これらの売り手たちは、人が近づかないタブーに踏み込み、いかがわしいものを正当なものと偽って買い手たちにおしつけることと引き替えに、自分の生計を立てているのである。三つの行為はいずれも、洛中の日常の世界にひっそりと潜む悪である。(p74)」

 

 冒頭の時代設定と、女や老婆との呼応を指摘して秀逸である。

 

「二度目に獲得する「勇気」について」として、下人は、老婆の話のどこから盗人になる「勇気」を得たのかについては、研究史の上で多くの解釈があるとし、三つの説を挙げている。

 

「第一は、下人は、老婆の話を聞いて、納得して、自分も生きるために仕方がないから盗人になったという説。これは、下人が老婆の仲間に入った、あるいは同じ考えを持つようになったという読み方である。第二は、下人は、老婆の話に現実を学んで迷いが吹っ切れ、感情のままに行動するようになったという説。また、老婆の後半の論理だけを受け入れ、その論理の陥仰(おとしあな)を突くことで盗人になったとする説。これらの説は、老婆の話や論理の一部分を取り入れたが、仲間入りはせず、同じ考えにはならなかったという読み方である。第三は、下人は、老婆の話や論理に反感を持ち、老婆の行為(隠れたところではたらく詐欺)とは対照的な、あからさまな悪事(強盗)を選んだという説。これは、老婆とはまったく別の生き方を選んだという読み方である。」

 

として、この後「一つの読み方」として解説者がいづれを支持するかを述べていく。

   

 「  老婆は詐欺を働き、自分の悪事を正当化しようとするエゴイストである。強盗になる下人もやはり悪人であり、エゴイストである。しかし、下人と老婆は、同じような人物なのか、まったく違う人物なのか。エゴイストにもいろいろな種類があり、エゴイズムといっても多義的なのではないか。例えば、日常の中にひっそりと隠れ、隠れることで人を傷つけるエゴイズムと、あからさまに自己を主張し、欲求をあらわにすることで人を傷つけるエゴイズムとの二つのエゴイズムか考えられるのではないか。単にエゴイズム=悪とするのではなく、また、善とか悪とか、極限状況とか許しとかで片づけるのではなく、より深くエゴイズムについて考えようとすること、そこにまず、芥川の独自の着服と問題提起を認める必要がある。

   生きるためには悪事を働くしかないとして、下人は、老婆たちのような偽りや詐欺ではなく、あからさまで反逆的な強盗になったと捉えるのが、より説得力のある読み方ではないだろうか。下人は、洛中の世界にひっそり隠れている老婆たちの生き方を「侮蔑」して、感情的な(感情だけの)あからさまな力を誇示していく生き方を獲得したと考え三つ目の説を採りたいと思う。その根拠としては、「冷然として」聞き、「嘲るような声」で念を押し、「かみつくように」言い、しがみつく老婆を「蹴倒し」て走り去る下人からは、老婆に対する強い反感や侮蔑感が読み取れることを挙げておきたい。(p75)」

 

と、表現を根拠にして述べている。しかし、「ひっそり隠れている老婆たちの生き方を侮蔑」したのはなぜだろう。「嘲るような声」は結果でありこの原因ではない。「侮蔑」の伏線がどこかに張られていない以上、私には唐突感が拭えない。老婆の話が終わった後、なるほどと言って他の死人の髪を抜くことも、死人の着物を剥ぐこともできた。しかしそれでは小説として面白くもなんともない。楼の下で張られた伏線、それは「低徊」だ。そして迷いをふっきらせた老婆の言葉は「大目に見てくれる」だ。だから下人は「きっと、そうか。」「恨むまいな」と念を押すのである。実際には許されていなくても、言葉のアヤの上でだけでも許されたことが下人の背中を押したのである。それを「勇気」という皮肉まみれの言葉で芥川は表す。「勇気」を芥川が皮肉に使う例は拙著「羅生門論」で指摘した。

 

「 しかし、これは一つの読み方である。重要なのは、作者芥川が、ふたりの対決を通して、エゴイズムについて読者に深く考えさせていることである。答えにではなく、むしろ問いかけにこそ、短編小説の持つ文学性を認めておくべきだろう。」

 

 こう締めくくれば何だって言える。答えを絞らない指導の講演が、県の国語研究部会でもされていた。一方、五択のセンター試験を批判する声を講演会で聞いたことがない。最後に解説者は「作者のまなざしの変化」について述べる。

「作品の末尾の一行は、最初にこの作品が発表された雑誌「帝国文学」(一九一五・一一)では、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」であった。この末尾文では、力を獲得した下人を、作者は肯定的な眼で見続けていることになる。第一短編集である「羅生門」(一九一七・五)に収録された本文でも、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでいた。」であり、大きくは変わっていない。しかし、「新興文芸叢書』第八編の「鼻」(一九一八・七)に収録する際には、作者はこの末尾文を「下人の行方は、誰も知らない。」と改めている。この手直しによって、下人を見る眼は消されて、ただ「黒洞々たる夜」が広がる結末に変わっていく。芥川は、下人から眼をそらしていくのであり、最初に作品を作ったときの熱が次第に冷めていくような心情の変化を想像することができる。

 そのことと符合するように、以後の芥川は、強いエゴイストを描くのではなく、弱いエゴイストを描いていく。「鼻」において描かれるのは、内供の「自尊心」であり、周囲の「傍観者の利己主義」であって、消極的なエゴイズムによってお互いに傷つけあう人間関係である。そして、「芋粥』では、五位というさらに弱い人間が無垢なる人間として登場し、周囲の迫害の被害者として描かれる。「羅生門」以後、芥川が見つめていくのは駆け抜けた下人ではなく、日常の中に偽りを済ませた洛中の世界であり、芥川は、「黒洞々たる夜」の方に眼を注いでいったといえるのである。」

 

 興味深い指摘だと思ったが、時間軸は正しいのだろうか。一九一六年二月に「鼻」を、九月に「芋粥」を発表し、一七年五月に「羅生門」を「大きくは変え」ず、一八年七月に変えたので、「そのことと符合するように、以後の芥川は」とあるが、「鼻」も「芋粥」も変える以前の作品である。一五年五月の「虱」で登場人物は刃傷沙汰になりそうな喧嘩をするが、これは芥川の作品としては異質で、翻訳小説「バルタザアル」から初めて「羅生門」までの全六作品を眺めても、死と皮肉な結果が共通項で、もともと強い人物は描かれていない。

 参考資料に例の書簡が挙げられているが、

 

 「羅生門」の執筆の年(一九一五(大正四)年)の初めに起こった失恋と、そのことから芥川が受けた痛手について友人に書き送った書簡の文章を挙げる。②③④の文章で、芥川がエゴイズムを問題にしていることから、失恋事件と「羅生門」のテーマとのかかわりが明らかになる。また、エゴイズムの問題といっても、それを単純に悪として憎んでいるのではないこと、愛の中に潜むエゴイズムヘの非難であること、エゴイストであることそのものを否定しているのではないことなどが読み取れ、エゴイズムの意味が多義的であったことが知られる。(p77)」

 

として四通の書簡を載せる。

「①大正四年二月二八日、井川恭宛書簡より

ある女を昔から知ってゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になってはじめて僕がその女を愛してゐる事を知った しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかった それからその女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかった その内にそれらの事が少しづつ知れて来た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知った

僕は求婚しやうと思った そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかった しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた

家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云った それから不愉快な気まづい日が何日もつヾいた其中に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は来なかった

②大正四年三月九日、井川恭宛書簡より

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない周囲は醜い 自己も醜いそしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい

しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をっゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある 僕はどうすればいヽのだかわからない

③同年三月十二日、井川恭宛書簡より

僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな気かする

しかし不幸にしてその新しい国には醜い物ばかりであった 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持ってゐる、そして人の持ってゐる美しい物を更によく知る事が出来たからである しかも又僕の持ってゐる そして人の持ってゐる醜い物を更にまたよく知る事が出来たからである 僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに強くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によって愛せらるヽ事なくとも生存苦をなぐさめたい

④同年五月二日、山本喜誉司宛書簡より

此頃は少しおちついてゐます しかし やっぱり淋しくって仕方がありません 何時この淋しさがわすれられるか 誰がこの淋しさを忘れさせてくれるか

それは僕にとって全く「鎖されたる書物」です 僕は社会に対してエゴイストです(愛国心と云ふやうなものも僕にはエゴの拡大としてのみ意味があると思はれます)そしてその主張の中に強みも弱みもあると思ってゐます その弱みと云ふのは個人の孤立(イゴイズムから来る必然の帰結としで《ママ》はないのですが)と云ふ事で強みと云ふのは個人の自由と云ふ事です 僕はこの弱みをー孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思ってゐます

すべての属性を(位爵 金力 学力等の一切)離れた霊魂そのものを愛する愛の外にないと思ってゐます

この愛の焔を通過してはじめて二つの霊魂は全き融和を得る事が出来るのではないでせうか この愛の焔に燃されてはじめて個人の隔壁は消滅する事が出来るのではないでせうか 僕が「餓渇く如く」求めてゐる心はこの愛です

  ※書簡の引用は、『芥川龍之介全集』第十七巻(一九九七・三 岩波書店)による。」

 

 書簡②は既に指摘した、吉田精一の「芥川竜之介」(昭和一七年 三省堂)の考えを色濃く反映した中央図書出版社の昭和三十八年版にも引用されたもので、引用の定番と言って差し支えない。数研はさらに書簡①で失恋の具体的経緯を、③④でエゴイズムの用例を他の書簡で示そうとしている。「エゴイズムの意味が多義的であったことが知られる。」と解説にあったが、「多義」の内容について具体的に触れていないので、私なりに具体的に述べたい。

 ②の書簡では「イゴイズム」は「独占欲」に近いと思う。③には引用文の前に「外面的な事件は何事もなく完ってしまった」とあるので、書簡①を受けてだと考えられるが、文脈がないので、②と同様に独占欲の可能性はあるが、虚栄心と性欲以外だということしかわからない。④の「エゴイスト」ははっきりと「個人主義者」と言って差し支えない。「利己主義者」ではない。夏目漱石は大正三年十一月二十五日の公演で「個人主義の必要」と「個人主義の淋しさ」とを述べた。個人主義が自由と引き換えに陥る孤立を癒すものとして、芥川は愛の必要性を述べたのだ。恩師広瀬雄への明治三十二年の手紙に「あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以来の事と御宥免下さるべく候」(「芥川龍之介全集」第十七巻p10)とある。樗牛のことについては私は全く疎いが、Wikipediaによると、明治三四年に「ニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した」とあった。

 井川恭は京都大学寄宿舎に、山本喜誉司は牛込区の下宿に住んでいて、多くの書簡をやりとりしているが、資料②③④はわかりにくい。どの書簡も全文ではない。しかし全文を読んでもわかりにくさは変わらない。その原因の一つは、書簡は返事であり、もらった書簡の内容を繰り返したり要約することはない、という書簡の性質からくるものだ。従って文脈を辿るのが難しい。人が電話をかけているのを聞いているとイラッとくるのと同じである。原因の二つ目は、どの書簡も、何かをきっかけに書かれたと思うが、具体的な出来事をわざと避けているようにしか思えない表現をとっていることだ。友人だけにわかる表現をとっている気がする。

 このようにわかりにくい書簡をもとに、「羅生門」の主題を考えて良いのか疑問である。吉田精一氏は芥川の書簡の「周囲は醜い 自分も醜い」を「養父母や彼自身のエゴイズムの醜さ」と言い換えている。自分の醜さについて吉田氏は具体的に触れていないが、醜いとするなら、幼友達に婚約が決まったと知って初めて彼女への愛に気づいて、彼女や婚約者の戸惑いを顧みず結婚を申し込もうと考えることであり、彼女への独占欲だとしても、果たして「周囲」を「養父母」に限定してよいのであろうか。「周囲」を私は、「養父母」だけではなく実父母も含めて考えている。書簡①の抜粋から省略された後に、ある家の細君が「女は僕と従兄妹同士だ」と言ったとある。またその細君は「錦絵の一枚にその女に似た顔があった」のを見て「誰かに眼が似てゐるが思出せない」と言い、「僕は笑った けれどもさびしかった」とある。女は実父の家の近くに住んでいた。つまり私は、この書簡から龍之介が自らの出生の秘密を疑っていた可能性を感じるのだ。女の父が、龍之介の本当の父かも知れない。結婚に猛反対する理由も納得できる。芥川が「周囲」という言葉を使うのもわかる。「太宰と芥川」(福田恒存、新潮社、1948)に描かれたこと(p103)が真実か私にはわからないが、書簡の後半は芥川自身の生存苦と自死の可能性について語られているのだ。失恋がきっかけの文としては、書簡②から重すぎるものを私は感じる。 

 書簡③の「僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズム」を見れば、私は書簡の半年前に書かれた「青年と死」を連想する。「青年と死」では前半に相手不明の性愛、後半に死への願望が描かれている。相手不明というのも出生に関する疑いを思わせる。しかし、「羅生門」に愛が描かれているか、ヴァニティ、自惚れが描かれているか、死への願望が描かれているか。私は否としか言えない。

 私は大正三、四年の書簡を読み直してみた。心に残ったのは「さみしい」という言葉だ。書簡①で一回、②で二回、③で二回、④で八回使われる。さらに五年二月まで使用例を見る。「生存苦の寂莫」と言い、「自己の存在を失ふ」ことで神に復讐するというのだから、とても重大なことが彼にあるはずだ。

 また書簡に、「愛」の語が頻繁に見えるが、芥川は「愛」を恋愛に限定して使っている訳ではない。「今までぼくは彼等の愛の中に生きた これからは彼等をぼくの愛の中に生かしてやる たとへその境に彼等がぼくをにくみぼくが彼等をにくむ事があらうとも」(巻二十三p260)と、友人達に対して恋愛とは違う「愛」の使用例がある。

 また、書簡④は「正直に云へば僕は反省的な理性に煩わされる事なしに云はば、最も純に愛する事が出来たのは君を愛した時だけだつたと云ふ気がしてゐます 夜はいつでもゐます ひまがあったらいらっしゃい」で終わっている。この部分だけを読むと同性愛的なものを感じるが、この「愛」は書簡④の省略された後半部分に書かれた「相互の全き理解、しかも理知を超越した不可思議な理解」のことなのだろう。女性に対する愛でないことは確かだ。

 ちなみに書簡④に「Yの事は一日一日と忘れてゆきます。」とあるが、Yは書簡①の女、吉田弥生である可能性は高い。また、書簡④の中ほどには「僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奥さんなんでせう 少しはいからな会では時々あひます」とある。また、「愛を求める資格が又大抵な人に対して僕には欠けてゐる」「ただ淋しいので僕のゆめにみてゐる人の名を時々文ちゃんにして見るだけ」「文ちゃんは嫌な方ぢゃありません」とある。ちなみに「文ちゃん」は塚本文、後の妻であり、親友山本喜誉司の実妹だ。参考資料の書簡④にはそれらのことは全て省略されている。確かに「羅生門」発表の半年前に書かれたそれら書簡の内容は、恋愛の痛手が「羅生門」を書かせたという主張には相応しくない。

 時系列に関して整合性の取れないものがある。参考資料では省略されているが、書簡③は「僕は愛の形をして《ママ》hungerを恐れた それから結婚の《ママ》云ふ事に至るまでの間(可成長い 少なくとも三年はある)の相互の精神的肉体的の変化を恐れた 最後に最卑しむべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の来る事を恐れた」から始まるが、これが何を意味するのかわからない。文法的にも違和感があるし、相手と少なくとも今は気持ちが通じ合っているが、自分は結婚までの三年間も愛し続ける自信がないというような文面に見える。誰のことを言っているのかわからない。吉田弥生なら内容が合わないし、塚本文ならもっと後の日付でないといけない。

 さらに草稿に関して、「『羅生門』草稿ノート」をめぐる問題」(明治大学大学院二〇一一年五月二十日)で早澤正人氏は、「羅生門」の「執筆時期を〈大正三年末頃〉とする研究者もいる。その代表的な人物が海老井英次」であり、さらに「「大正三年十二月」(初稿原稿)と「大正四年九月」(再稿原稿)の二度にわたって脱稿されたとする新説を提出した」と紹介している。「従来の定説を覆すほどには至っていない」としながらも、芥川の初期作品の表現描写の特徴から、「ノートが大正三年に書かれた可能性も射程に入れなくてはいけない」としている。そうならば、失恋事件は関係なくなる。

 もちろん、草稿ノートと「羅生門」では多くの点が異なっているから、草稿ノートと「羅生門」は別物だとしても、芥川が「あの頃の自分のこと」で語った、「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)」は無視できない。であるなら、「現状を懸け離れた」小説を理解するのに、当時の書簡から読み取れる苦悩を当てはめるのは、論理的に間違っているのではないか。書簡には関わらず、まず「羅生門」の内容から考えられる主題を導き出し、次に当時の書簡のテーマと重なるものを省く方が論理的なのではないのか。

 前項の桐原書店教授資料は「読解の多様性を導く」原因を探ろうとしたが、この書簡群と関連づけようとすることこそが多様性を生む原因ではなかろうか。手紙という、本人たちしか知らない、文脈がわかりづらく、「イゴイズム」「愛」「生存苦」「神」「復讐」「さみしさ」をキーワードとする文章と、それらを全く含まない、書簡から八ヶ月後に発表された「羅生門」という小説とを関連づけさせるということが本当に必要なことなのか。無関係のものを関係付けさせる無意味な作業こそが問題を混乱させ、挙げ句の果ては多様性という無責任な方向に導いている元凶といえないだろうか。掛詞を修辞法とする伝統を持つ日本人は、言葉の意味の二重性を楽しんできた。私たちに必要なのは、込められた意味の多義性を理解することであり、読者の主体性や解釈の多様性を認めることでは決してない。

 また、芥川の書いたものを無視できないのであるならば、Defendence for “Rasho-mon”」も同様のはずだ。しかし、五十年前と同様に書簡②が重要視され、十年前の一九九七年に出された岩波書店の「芥川龍之介全集」に収められたDefendence for “Rasho-mon”」は無視される。なぜそういうことが起こるのだろうか。

 

 以上、私は

1 発表の九ヶ月前の書簡から、小説の主題を探る事は正しいか

2 書簡に使われた抽象的な言葉が事件のことを指すと断定できるのか

3 書簡中の「エゴイズム」という言葉が、芥川の体験のどの部分を具体的に指すのか

4 書簡中、時系列が不自然な部分の扱いはどうするか

5 書簡以前に草稿が書かれていた可能性が指摘されているがどうするか

6 芥川の体験から小説を読み解こうとする作業は、「現状を懸け離れた」小説という芥川の言葉と矛盾しないか

7 芥川が残したDefendence for “Rasho-mon”」の「It is "moral" that l wished to handle.According to my opinion“moral"(at least"moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.」との整合性をどうするか

 

について述べた。私は書簡より、「今昔物語集」の表現との差異について考える方が「羅生門」を読み解くのに近いと考える。芥川が書き変えたのは、そこに意思があり、彼にとっての必然性があったと思うからである。次回はその点について述べたい。

「羅生門論2」二十一 桐原書店 教授資料 平成九年度版

 桐原書店は平成十年に採録を始め、二六年まで連続で採録を続ける。以降は確認できていない。

 

 吉田エゴイズム説に真っ向から反論した教授資料と言える。平岡敏夫氏の意見も引用しながら、かなりの字数を使い解説者の意見を述べている。表現を細かく読み取っていくのは平岡敏夫氏編集の筑摩書房の教授資料に近い印象を受けるが、より細かく読み取り、吉田説の矛盾をついている。しかし、結論には同意しかねる。

 

「鑑賞」の項より

 

「(略)小説の読解は、詮ずるところ主題把握ということになろう。が、その「羅生門」の主題すら、いまだに新しいものが出現しているのが現状である。

 では、そうした現状の秘密はいったい奈辺にあるのか。例えば「人間が生きるためには持たざるをえないエゴイズム」を説く吉田精一氏を見てみよう。下人がもし「明日にも」「飢え死に」しそうな、いわゆる「極限状況」にあるとすれば、下人が老婆を自らの生存の犠牲としたところで、その行為は法的にも許されている。これを「エゴイズム」とは言えるものではない。「カルネアデスの舟板」を思い浮かべてみれば、これは自明のことである。まして下人は老婆の着物を引剥いだにすぎず、命まで奪ったわけではない。秋の終わりの肌寒い夜とはいえ、老婆には周囲の死骸からその着衣を剥ぎ取る自由が残されている。(P19)」

 

 文学を法律論で切るのはいかがなものかと思う。「こころ」の先生は全く無罪だから。

 

「 さらには、下人は「極限状況」におかれてはいない、と、平岡敏夫氏の早くからの反論がある。「右の頬」の「赤く大きなうみを持ったにきび」からは、下人が持つ生命力が十二分にうかがえるし、何よりも、ほんの少し頭を働かせてみれば、「盗人」以外にも生きるすべはいくつも見つけられるはずである。「羅生門」の作中に、少なくとも二つはその具体例が示されている。(P19)」

 

 にきびが青年期に多いことは私も認める。しかしにきびの原因は①ホルモンバランスの崩れによる皮脂過多②不衛生による菌の増殖③ストレスということなので、脂分の多い食生活の面のみ考え、生命力ととるのはいかがなものだろうか。私は「うみを持ったにきび」から不衛生を感じ、野宿を繰り返し薄汚れた下人像が浮かぶ。

 下人のとれる盗人以外の道として鬘と干魚を解説者は指摘するが、「今昔物語集」に奇譚として紹介されているということは常人は思いつかないということではないのか。事実私は思いつかなかった。また、「今昔物語集」によると、蛇魚売りは三条天皇東宮の時(1000年ごろ)なので、都はまだ疲弊していない。また、「盗ミセムガ為ニ京ニ上リケル男」は老婆から鬘も奪うが、それは京にまだ余裕がある時代だと思われる。その例を、貨幣経済が破綻し人心の荒廃した時代に当てはめることに問題はなかろうか。解雇され既に下人でなくなった男を下人と呼ぶ時点で、彼は下人として規定されたのであり、作者の設定をとやかくいうのは間違っている。盗みを悪と考え悩む普通人で良いのである。

 女や老婆のようにしなかったのは、「下人の境遇と性格による。」と解説者はする。すぐに暇を出されなかったところから「彼は誠実で、陰ひなたなくよく働く下人だったと推測される。」「物心ついたころから屋敷勤めをしていたと推測される。したがって屋敷うちのことしか知らず、いわゆる広い世聞知はなかった」とする。「「下人」としての生き方しか知らない彼は、」再就職も断られ、「「盗人になるよりほかにしかたがない」と思い込み、飢え死に間近だという下人の思い込みを読者もそのまま思い込んだと解説者は指摘する。吉田エゴイズム論の条件部分である「極限状況」の否定であるが、私は「極限状況」を否定する必要はないと思う。「極限状況」と限定することで、本来主題が持つべき一般性を放棄して、及び腰の迫力のない表現になっただけだからだ。解説者が指摘した下人像をもって読む必然性が私にはよくわからない。想像力を逞しくするのは良いことだが、すぐに暇を出さなかったのは主人が面倒見が良かったからかもしれないし、その主人が一番最初に暇を出したのが下人だったかもしれない。問題は芥川が、飢え死にを下人の単なる思い込みとして、意識して描いていたかということだ。私は単純に四、五日飯を食わなかったら、かなり参るだろうなと思うだけだ。暇を出されたのが、二、三日でも、六、七日前でもない、絶妙の日数だと思う。しかし、次の指摘は私も解説者に大いに共感する。

 

「この飢え死にしないためには盗人になるしかない、との思い込みは、下人の性格によってさらに激しいものとなる。作品中まず第一に目につく表現はフランス語「Sentimentalisme」であろう。このいささか変わった表現は単に鷗外からの借り物であったばかりではない。「今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した」に始まる数多くの下人に関する描写は、下人の感傷癖を証するものである。フランス語表記は、下人のこの性格を特筆するものなのである。(p20)」

 

 フランス語表記については、今まで各論あったが、「性格を特筆するもの」という指摘は初めてである。同感である。「ひょっとこ」「虱」でもこの手法を芥川は使っている。

 

「 下人は「冷然として」老婆の語りを聞き、話が終わると「あざけるような声で念を押」し、老婆の着物を引剥ぐ。この行為を大げさに「悪」と呼び、老婆の行為に対する反感を同様に「善」と呼んで、「人間存在は善と悪という矛盾を共存させている」とテーマをとらえるのは大仰すぎよう。つまりは感傷癖のなす仕業にすぎないのだから。(p20)」

 

駒尺喜美説を大仰すぎると退けている。引剥ぎを「感傷癖のなす仕業」としているのは違和感を持つ読者もいらっしゃるかもしれないが、Sentimentalismeを感傷癖と訳するから変なので、「Sentimentalismeみたいな、外的作用に左右される内面」というふうに理解したい。続けて解説者は

 

「だいたいが、下人の引剥ぎは、老婆のふてぶてしい世聞知に対する反発だったのだから。金に換えうる抜いた髪の毛・死骸の着物には目もくれなかった事実はこのことの証拠といえよう。」

 

と続ける。出典であろう「今昔物語集」巻第二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」で盗人は「死人ノ着タル衣ト嫗ノ着タル衣ト抜取リテアル髪トヲ奪取リ」と書いてある。芥川が、奪うものを老婆の着物に限定した意図を考えることに私も同意する。しかし解説者の分析には一考を要する。老婆の「世間知に対する反発」と解説者はするが、これは最初に書いた下人に「世間知はなかった」と呼応するものであろう。が、果たして芥川は世間知がない人物として下人像を登場させたのであろうか。解説者が世間知にこだわるのは次の説明と関わっている。

 

羅生門」執筆の動機を、吉田弥生との失恋に見ることは今では定説となっている。彼女との結婚の願いは、芥川家の、特に芥川を育てた伯母フキの涙ながらの反対が強く、断念するに至ったとされる。こうした心の鬱屈をふっ切るために書いたとすれば、主人公に着物を剥ぎ取られたあげく、蹴倒される老婆は、その伯母を仮託したものともいえるかもしれない。芥川を育てた伯母だが、そして芥川自身も「伯母がいなければ今の私はない」と感謝してもいるが、逆に全き信頼を裏切った彼女への激しい怒りが、こういうフィクションの形をとったともいえよう。老婆のデフォルメされた造型もその証であろうか。(p21)」

 

 この文脈から言うと、結婚に反対する伯母は「世間知」の人なのだろうが、フィクションの中で伯母をひどい目に合わせるというようなやり方で「心の鬱屈をふっ切る」ことができるのだろうか。「芋粥」「鼻」「地獄変」「蜘蛛の糸」など芥川の作品にひどい目に遭う人物はたくさん出てくるが、彼らはささやかな欲望を自分の言葉でパラドキシカルに奪われている。むしろ芥川の悲しそうな視線を感じる。この辺は私の主観が出ていて分析的な反論にはなっていないのでここで止める。ただ一つ「心の鬱屈をふっ切る」というのは、芥川が「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)からくるのだと思うが、伯母の化身を登場させることが「現状とかけ離れた」ことになるのかという疑問を呈しておく。

 

「 さらには、下人が行為に走ったのは楼の上においてである。門の下では彼は迷っていた。「夜の底へ駆け下りた」下人は、そこでは再び迷いに陥らないだろうか。

 しかし、作者芥川が認識の人であり優柔不断な自己を仮託した下人を、悪に力強く踏み込む行為に走らせようとする意図は明らかである。「この老婆を捕らえたときの勇気(=悪に対する反感)とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気」との説明に示されるし、何よりも「黒洞々」という「字眼」(小林英夫氏)に如実に現れている。このように、「羅生門」という作品にはモチーフと表現とに乖離が見受けられる。このズレが「羅生門」読解の多様性を導く結果となっているのは疑いのない事実であろう。(p21)」

 

 モチーフと表現との乖離が読解の多様性を導くという結論になっている。「このように」で挙げられたものを整理すると、1極限状況なら法的に許されるのに問題にしている 2極限状況だと言いながら描かれている状況は違う 3伯母への怒りが執筆の動機である 4場所と行為の関係が下人において一致しない となろうか。問題は「モチーフ」が何を意味しているのかだ。

 1では主題のように思える。主題エゴイズムを描くのに着物を剥ぐだけでは表現不足だということだろう。エゴイズムを前提にしているので、主客転倒である。主題をエゴイズムと決めつけてからの表現批判となっている。

 2では話題のように思える。「極限状況」は吉田氏の表現であり、1と同様に主客転倒で、主題を決めてから表現を批判している。「にきび」は平安時代と現代とをつなぐ表現として私は評価する。宇野浩二は「上手の手から水がこぼれた」と、失敗としているが、くどい表現は拙著「羅生門論」で指摘した戯画的な滑稽表現の一つなのかもしれない。

 3では動機の意味である。「デフォルメ」と言っているが、乖離しているとは言っていないので、解説者がこの項に挙げるのは適切でなかった。解説者はこの後「ただ単に、伯母への憎しみを、この小説を書くことで解消して喜んでいるだけならば、この後の多数の傑作をものにすることなどできなかったであろう。」という言葉で鑑賞の項を終えている。伯母への憎しみだけではないと言うが、伯母への憎しみは事実なのだろうか。「不愉快な気まづい日が何日もつゞいた」(恒藤恭宛書簡)から憎しみを読み取ることが私にはできない。女性に婚約が決まったことで初めて自分の恋心に気づき婚約破棄を迫ろうとする芥川を一夜泣きながら止めた伯母に、翌朝結婚を諦めると言った芥川は憎しみを持ったのだろうか。

 4では「悪に力強く踏み込む行為に走らせようとする意図は明らかである。」としているが、「下人は、既に雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」という初稿より、「下人の行方は、誰も知らない。」という定稿を元に鑑賞すべきである。解説者が指摘した通り楼上での「Sentimentalisme」なのだから、下に降りれば「誰も知らない」のである。全く乖離していない。

 以上、モチーフと表現との乖離が読解の多様性を導くという結論は論拠において既に破綻している。続けて解説者は

 

「下人に芥川は自分自身を仮託した、と既に書いた。迷いに居て踏み切れない下人、はしごからのぞき見る下人。見るとは「行為」より、むしろ「認識」に近い。したがって近代知識人の典型、芥川にきわめて近く造型された下人なのである。

 その下人が行動に走るのだが、それは老婆の弁明を待たねばならなかった。(略)

 「なるほどな、死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ」という、弁明の初めの言葉は、下人に必死に身を添わせた方便であった。生活者老婆に、善とか悪の基準が日常的なものとして存在していたとは考えにくい。

 善・悪は認識者下人に近い概念である。「わしのしていたことも悪いこととは思わぬ」という言葉を、下人は「悪全般」と概念的に受け止めたのである。このことはのぞき見の場面で、「老婆に対する激しい憎悪」と表現してたちまち「あらゆる悪に対する反感」と言い換えている点でも明らかである。

 下人は、生活者老婆の世聞知を、そしてそれから来る具体的方策を、なぜそれが必要か、なぜそう弁明しなければならなかったのか、等について理解が及ばず、自らの特質に近づけて、「生きるためには悪全般は許される」と思い込んでしまったのである。(P21)」

 

 「特質」が何を指すのか分かりにくい。「特質」を解説者はここで使っただけで他の箇所に用例はない。「特質」の辞書的意味から、内在するものとすると、解説者の言う「思い込み」だろうか。でも「特質に近づけて」「思い込んでしまった」は意味をなさなくなる。では文脈から考えれば「飢え死にしそうな状況」だろうか。多分「自らの置かれた飢え死にしそうな状況に近づけて」と言うつもりなのだろう。解説者は続ける。

 

「このように、作者は自己仮託した下人その人を批評している。言い換えれば、老婆を引剥ぎ蹴倒す「愉快な」小説を書いている作者自身のありようを客観的に見据えている、ということなのである。

 この点に、「羅生門」という作品が容易に「読み尽くされない」最大の理由が見いだされる。そしてここにこそまさしく認識の人芥川の真骨頂がある、といえる。ただ単に、伯母への憎しみを、この小説を書くことで解消して喜んでいるだけならば、この後の多数の傑作をものにすることなどできなかったであろう。(p21)」

 

 解説は以上であるが、実在人物を登場人物に仮託して復讐する小説を書く筆者自身を批評し客観視していることが多様な解釈を生んでいる、ということになろうか。全体として「世間知に対する反発」という結論を前提にした積み上げのように思える。そしてモチーフと表現の乖離と言う。それはそうだろう。間違った結論から遡れば、表現との一体性が破綻するのは当然だ。吉田精一説を批判しながらも、吉田説と同じ失恋問題から出発してしまったのが悔やまれる。しかし、他の会社とは違った視点で細かく分析を試みているのには好感が持てる。参考資料も豊富で、怪異趣味、吉田弥生との恋愛、恒藤恭宛書簡、歴史小説について、「羅生門」の原典、をA4三枚に渡り掲載している。他の指導書を圧倒する量だ。が、その三分の二は芥川の失恋に関してのものだ。最も私が驚いたのは、最後に

 

⑦「羅生門」の主題

 "Rasho‐mon"is a short story in which l wished to"verkorpern"a part of my Lebens anschauung if l have some Lebens anschauung,but not a piece produced merely out of “asobi-mode".It is "moral" that l wished to handle.According to my opinion“moral"(at least"moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.

 

とあったことだ。教授資料に「Defendence for “Rasho-mon”」が登場したのだ。しかも「主題」としている。が、訳を全く載せず、資料の一番最後にひっそりと置いてあるのは不思議で残念だ。主題という以上、英文の内容を理解しているはずだ。主題というならなぜこの英文から遡らないのか。不思議だ。私も、岩波書店芥川龍之介全集でこの資料を見つけた時、本当に芥川の自筆なのだろうかという疑問を持った。この信憑性を判断する力は私にないが、芥川が書いたのなら無視はできないと思う。そして拙著羅生門論」でも既に書いたように、「羅生門」は英文評のように読める。仮にこの英文の作者が芥川でなくても、「羅生門」の主題を明確に簡潔に言い得ていると私は思う。私が確認した教科書図書館にあった指導書の中では桐原書店のものが唯一であったが、平成十年頃には他の会社も掲載していたかもしれない。残念ながら確認していない。これは私として迂闊だった。尤もこの「羅生門論2」はエゴイズム論がどのように広がっていったか、その原因を探るのが目的だったのでどうしても各社の最初の指導書に注目してしまったのだ。次の東京行きまで待たねばならない。

「羅生門論2」二十 教育出版教授資料 昭和五六年度版

 教育出版は昭和四八年に採録を始め、六三年まで続き、五年間休んだ後、平成六年から二五年まで連続で採録を続ける。

 

 四八年度版で解説者は吉田説を示しながらも、疑問を持ち、控えめに自論を述べていた。解説者は、善にも悪にも働く人間行為の契機といったもののありかたを主題と考えていると言っているように私には思えた。昭和五六年度版では

 

「●論理と心理」の項で 

「 下人の心理に変化をきたしたのは、老婆の論理からである。老婆の話をまとめれば、生きるためには悪も許容される、という論理になるが、これを挾んで下人の心は揺曳し、逆転していく。つまり、本作は、人間を取り巻く状況の推移によって、心的状況も変化せざるを得なくなっていく実相を描いたことになる。これを、人間そのものの持つエゴイズムの結果として、また人間存在の不確実性などと称していいのかどうか。或いは、生きることが決して悪と無関係ではあり得ないと処理してしまっていいのだろうか。「されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ」と言った老婆も、その論理を逆用して「では、おれが引剥をしようと恨むまいな」と対応した下人もまた人間であるのだ。」

 

と、吉田、三好説に疑問を呈している。続いて「●主題をめぐって 」の項で

 

「 こうした結構の『羅生門』の主題をめぐって、様々な作品論が展開されてきたが、下人が盗人に転身する結末について、吉田精一の「芥川は熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる、善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方があるとし、そこから下人にエゴイズムの合理性を自愛(ママ、自覚が正しい)せしめている。そうしたエゴイズムの醜さをのがれようとすれば、彼の生存は否定するよりほかはない。ここに龍之介の感じ且つ生きたモラルが見える。」(『芥川龍之介新潮文庫昭和三十三年一月)とする見解が一般的である。これをさらに展開させた三好行雄の「芥川龍之介が『羅生門』で描いてみせたのは地上的な、あるいは日常的な救済をすべて絶たれた存在悪のかたちである。人間存在そのものが、人間であるゆえに永遠に担いつづけねばならぬ痛みであり、生きてあることにまつわるさまざまな悪や苦悩の根源である。」として、結末を「論理の終焉する場所にたちあう精神を〈虚無〉と名付け」るなら、その〈虚無〉の対象化であり、「下人を呑みほした夜は、いかなる救済もうちにふくまぬ〈無明の闇〉に通じる。」(以上、『芥川龍之介論』昭和五十一年九月 筑摩書房)ととらえている。また駒尺喜美は、芥川の「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)などを引いて、「徹底し得ないとか、不安定とかいう彼の胸の淋しさや、暗い眼つきはな」く、「当時の心の痛みや心情とはかけはなれたもの」で、「いささか得意でもあった、人間内部における矛盾の併存という命題によってかかれている。」(『芥川龍之介の世界』昭和四十二年四月法大出版局)としている。」

 

三者の意見を紹介したが、吉田説を四八年度版で「(略)と吉田精一氏(「芥川龍之介』(三省堂))は主題をとらえている。」としていたのを、「吉田精一の(略)とする見解が一般的である。」となり、単なる紹介から多数派であることを認める立場に変わっている。また、三好論を淡々と紹介している。「「●論理と心理」では疑問を呈していたはずなのに。「●結び 」の項で

 

「 以上は、エゴイズムの合理性、人間の存在悪、或いは人間内部の矛盾の併存などの見解としてまとめられるが、いずれにせよ、こうした主題を包含するための空間、すなわち『羅生門』における平安末期=「昔」という時代や、「異常な事件」が設定され、そこに下人や老婆が投げ込まれたということになる。つまり、前述のような極限状況に置かれた人間が示す心理や行為の不可解さや、また状況によってはいかようにも変化し得る人間の脆弱性を剔抉して見せたと言えるのである。とはいえ、作者は人間の持つそうした点を明快に否定したということではなく、その実相を冷静に分析、照射したということである。」

 

と述べている。解説者の言う「状況によってはいかようにも変化し得る人間の脆弱性」からは、駒尺喜美の論を支持しているように思える。駒尺論が吉田論を受け入れられるとは思えない。にもかかわらず、なぜ吉田説を否定せず曖昧なまま放置するのか。教授資料は論文ではなく、あくまでも資料だと言うなら、「一般的」とか説に軽重をつけるのはおかしい。説を羅列し、使用者に判断させれば良い。しかし、私はそれで終わりとは思わない。解説者自身の意見も書くべきだ。それはある説を支持するものでも、新しい見解でも構わない。執筆した以上、作品に対する思いは湧くはずだ。解説者の見解として遠慮なく述べる、それが生きた文章というものだ。四八年度版にはそれに近いものがあった。しかし五六年度版では、最初反駁の姿勢を示しながらも、「いずれにせよ」で収斂してしまい、勢いのないものになってしまったように感じる。それはなぜなのか、私は気になる。

 

 表現の特色として[繰り返し][引用方法][比喩法の多用]を挙げている。

「「旧記によると」「作者はさっき……と書いた。」「旧記の記者の語を借りれば」などのように、引用の巧みさがある。これにはもちろん時代背景の雰囲気作りという意図もあろうが、むしろ作者は現代に立脚し、その視座から作品に解釈を加えていることの表明と受け止めるべきである。「この平安朝の下人の Sentimentalismeに影響した。」もその例であろう。ここでわざと「平安朝の」と断ったのは、次のフランス語との組み合わせが醸成する効果を狙ったのに相違ない。読者には、平安、つまりは王朝の持つサロン的雰囲気や、フランス語の持つモダニズムを想起させるが、『羅生門』の世界は、それを逆転する陰鬱で重いものなのである。」

というように、作者の現在という立ち位置を読者に意識させる手法だとする指摘は秀逸だ。昔の異様な世界を舞台にしているが、作者は離れた現在から観察しているのだ。

このような指摘は、今までの教授資料にはなかったと思う。

「羅生門論2」十九 大修館書店 教授資料 昭和五六年(1982年)版

 大修館書店は昭和五七年から連続三十年間以上採録している。

 

 「主題」は

 

ある日の暮れ万に荒れ果てた羅生門で雨やみを待つ下人を主人公とし、死体から髪の毛を抜く老婆とのかかおりのなかで、その心理の推移を描きつつ、ひとつの美的な世界を創造しようとする。羅生門という題名に象徴される、自然と人事をつつみこんだ世界そのものを主題と考えたい。人間のエゴイズムの追求というように主題を要約する考え方も多い。(P58)

 

としている。「自然と人事をつつみこんだ世界そのもの」が主題だというならば、世にあるほとんどの作品の主題は同じになってしまうので、納得できない。これは、以前「高等学校国語教育情報事典」(1992年大修館)の項で指摘した、平岡敏夫氏の説によるのだろう。また後述するが、「「下人の心理の推移」が主題であるとしても」(p78)という表現もされている。これは吉田精一氏の表現であるが、「主題」と「話題」の違いは何なのか、「主題」の定義をする必要を感じる。「世界」とか「推移」は話題であり、「主題」とは言えないと私は思う。私は主題を、〇〇は△△である、という主語述語を伴った概念として定義している。例えば、正義は勝つ、とか、人は利己的である、とかである。話題にするときには勧善懲悪とかエゴイズムとか単語に略すが、その単語は暗黙の了承で主述を伴った概念で理解されているはずだ。言い古されたものでも構わないと思うが、誰も言わないものに出会うとしびれる。もちろん、本文には直接書かず、読み手があっと気づき、パラダイムシフトが起こる、最高である。「羅生門」の、人は自然や他人という外部に感じ方の影響を受けるという主題はパラダイムシフトになりえただろう。しかし、利己主義、個人主義、博愛主義、その肯定と否定が中心だった明治大正時代の文学界において、理解されることがなかったのだろう。「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」という最後の台詞を以てエゴイズムと決めつけられてしまったのだ。

 

 「鑑賞」の項において、

(略)「羅生門」という作品の魅力は、今日の現実とは非常にかけはなれた、平安朝の別世界、荒れ果てた羅生門を中心とする異次元の世界に、読む者を導くところに、大きくかかっているのではないだろうか。そのことはむろん、人物・事件の要素とも密接にかかわっている。

(略)芥川の小説は、近代人(現代人)のエゴイズムをあばいているといった通念がある。「この下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。」(古田精一 『芥川龍之介』)という見解は今日なお定説と言ってよい。主題は「下人の心裡の推移」であり、それを通して人間の持つエゴイズムをあばいたというのである。近代文学は人間の自我を追求するものであり、その自我の内部のエゴイズムをあばいて行く、という通念は、たとえば漱石の「こころ」の鑑賞にも及んでいる。それ自体があやまりであるはずはないが、人間いかに生くべきかを、直接小説作品に問おうとして、人間のエゴイズムを理解し、批判するといった地点で、学習が行われるとしたら、問題であろう。小説作品は何よりも作者が現実とは異なる別次元の世界を構築した、魅力ある言語の世界なのである。

(略)人間のエゴイズムを読みとるという傾向に反対の意見もつとに出されていた。宇野浩二は、筋だけ抜き出せば、実にはっきりしたテーマ小説であるとして、「それで、当時の或る批評家は、この小説を『生きんがためのエゴイズムの無慈悲』を刳り出したものである、と云ひ、『生きんがための悲哀』を描いたものであるなどと評してゐる。しかし、これは、唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云ふことであって、私などは、この小説をよんで、さういう考へは殆んど全く浮かばなかった。」(『芥川龍之介』)と言っている。こういう読者(作家であり芥川の友人)もいるのであるから、はじめから、エゴイズム云々として、生徒に押しつけるのではなく、生徒がどのように受けとるかをまず出発点とすべきなのである。福田恒存氏も「『羅生門』や『偸盗』に人間のエゴイズムを読みとってもはじまりません。 (中略)多くの芥川龍之介解説は作品からこの種の主題の抽出をおこなって能事をはれりとする。さういふ感心のしかたをするからこそ、また逆に龍之介の文学を浅薄な理智主義あるひは懐疑主義として軽蔑するひとたちも出てくるのです。」(「芥川龍之介」)と述べている。

(略)羅生門」において、たしかに下人の心理はつぎつぎと変わり、推移している。これは老婆との接触によるところが大きいが、雨の夜の羅生門という状況、その雰囲気も大いに作用しているようである。どういう心理なのか、なぜ、変わって行くのかを、こまかく読み、味わうことが必要で、それは「語句・語法の解説」の項でふれたところである。

 

というように、エゴイズムをあばいているものであるという吉田精一の見解は今日なお定説と言ってよいとしながらも、宇野浩二福田恒存らの反対の意見も挙げている。エゴイズム論には中立的立場をとっている。また次々に変わる下人の心理の内容、推移、理由を味わうことが必要だとする。そして

(略)「下人の心理の推移」が主題であるとしても、どうして、こんなことになるのかが読みとれなければ、作品は不可解のものとなってしまうにちがいない。

(略)「許すべからざる悪」という下人の判断は、作者自身もことわっているように、合理的な判断ではない。合理的には判断できないのに、心情のほうでは、はっきり悪と判断している。

(略)雨の夜の羅生門を「この雨の夜の、この羅生門の上で」と、さきにも力をこめて作者は確認していたが、それはこの作品にとって不可欠のものなのであり、髪の毛を抜くということは、「この雨の夜の、この羅生門の上で」とは、相容れない(許すべからざる)行為なのである。なぜ、そうなのかを作者は読者に「合理的」に判断させるようにはしていない。雨の夜の羅生門という状況からする直感的な判断としてもよいが、盗人になる気でいたことを忘れていたとあるように下人は倫理的、合理的でなく、動きやすい心情の持ち主なのである。

 

としている。髪の毛を抜くということが、「この雨の夜の、この羅生門の上で」とは、相容れない行為だというのは読み誤りで、雨の夜の羅生門の上だから悪だと芥川は書いているのである。羅生門を今の生徒にわかるように言い換えると墓地となろうか。たとえ現代風のモダンなマンション墓地であっても、「雨」「夜」が加わると、読者は「悪」の行われそうな設定であることは否めず、またその感じ方が合理的でないことも同時に理解できる。難しいのは、「死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。」である。「それだけ」に死人の髪の毛を抜く行為も入っているのだ。「それだけ」という表現を倫理的に許容できない読者は多いだろう。老婆も「何ぼう悪い事かも知れぬ」と認めている。しかし、「人肉料理」(芥川龍之介全集22)に未定稿としてに

 

(略)その生命が存さない限り、それは屍体であるにしろ、人間と呼ぶ事は不可能です。 既に人間でないとすれば、俎上の牛肉や豚肉と選ぶ所がないのですから、当然道徳は人肉料理に、容喙する資格がありますまい、いや、現に今日でも、道徳は既にこの点では、寛大な態度を示してゐます。何故と云へば火葬の如き、又は屍体解剖の如き、いづれも実は人肉料理の或過程ではありませんか。猛火に焼かれる人肉にも、メスに切り裂かれる人肉にも、何等の義憤を感じない以上、人肉のスウプや人肉のハムに、道徳的嫌悪を感ずるのは、哂ふべき一種の感傷主義です。

 

とある。芥川が心からそう思っているのか、論理として書いているのかは不明だが、ここには「それだけ」に通じるものがある。我々の常識、倫理への懐疑である。

 指導書では引剥ぎをする場面について、

 

(略)老婆は、蛇を魚といつわって売っていた女もそうしなければ飢え死にする故にその行為は悪ではなく、その女の髪の毛を抜く自分も、そうしなければ飢え死にする故に悪ではない、と語る。「冷然として」聞いている下人が、老婆の話(その論理)に共感しているはずはない。「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」と下人はかみつくように言うが、この論理は老婆の論理を逆手にとった、引剥の口実にすぎないだろう。

(略)その憎悪が老婆の答えの平凡さに対する失望とともに浮上してきていたことを思うと、下人の心理はいまひとつはっきりしないところもある。背景の作用を受けることが多い人物であるかも知れない。

(略)   老婆の論理をそのまま下人が自己の論理として着物を剥ぐというところに、芥川らしい機智を人は読みとるだろうが、それはおもしろいことであるにせよ、「羅生門」という作品の魅力をそこに見てしまうわけにも行かないのである。「蛇を切売りした女と、女の髪の毛を抜く老婆と、その老婆の着衣を剥ぐ下人と、かれらは傷ついた犬が傷口を嘗めあうように、生きるためにしかたのない悪のなかでお互いの悪を許しあった。悪が悪の名において悪を許すー人間が人間の名において、といいかえてもよいーそうすることを許容する世界が現前したのである。倫理の終焉する場所である。」(『芥川能之介論』)と三好行雄氏は言う。おそらく、このくだりの読みの極限がここにある。老婆の論理を、引剥の口実として読みとるのとは、非常な相違があるというべきだろう。

 

と三好説を引用し、機智ではなく許容だとしている。老婆は本当に許容したのだろうか。老婆は着物を剥ぎ取られた後、蹴倒されるまで下人の足にしがみつき、うめくような声を立てて這っていき、下人の下りて行った門の下を覗きこむ。目に映るのは逆さまに映った黒洞々たる夜ばかりなのである。どこに傷口の嘗めあいが、許容が読み取れるのか私にはわからない。あるとすれば情状酌量相殺論理である。ちなみに私が拙著「羅生門論」で指摘した、「羅生門」の発表の前年、山本内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件の、ベルリン公判廷判決は、贈収賄が恐喝未遂事件を誘発したとして情状酌量を認め、被告を減刑したものであった。

 指導書の「下人は倫理的、合理的でなく、動きやすい心情の持ち主なのである。」「下人の心理はいまひとつはっきりしないところもある。背景の作用を受けることが多い人物であるかも知れない。」という指摘は同感である。芥川は、下人が特殊な人物なのではなく、多少の誇張はあるが、むしろ人間とはそういう存在なのだと考えていたと私は思う。吉田精一氏も「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし」としながらも続けて「そこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめている。」と突然飛躍している。二者択一に陥ってしまったのだ。しかも「羅生門」を正確に読むと正義感とエゴイズムは単に移ろっただけであり、両者の「葛藤」は描かれていない。「とうに忘れていたのである。」「考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」と書いてあるのだ。

 指導書の執筆者や吉田氏も、自分の解釈の枠に収まらない何者かの存在を感じ違和感を持っている。その、まだ言葉にならない違和感を突き詰めることが我々には大切なのではなかろうか。

「羅生門論2」十八 右文書院 昭和五六年(1982年)〜

右文書院 昭和五六年(1982年)

 

 右文書院は昭和五七年から六十二年までと、平成六年から十八年まで採録する。

 

 [段落について]の項で、長谷川泉の文として

 

 (略)下人をしてある行動を決定させる契機をなしたものは、老婆の懐疑を越えた意志と行動とであり、老婆は自己の結論が触発する契機に基づく下人の行動によっていたく復讐されるのである。それは生きるためのエゴであった。生きるためのエゴが、人為的な道徳を蹴飛ばす残酷な世界が展開されている。個人道徳は生きることの支えとならない時に弊履のごとく棄てられる。そしてそれは道徳的な自省や懐疑も段階的に麻痺してゆくていのものである。(『近代名作鑑賞』至文堂)」

 

を紹介した後に、[主題について]の項で

 

その捉え方はいろいろで統一されたものはない。研究者もそれぞれの立場で意見を述べている。共通している点は、論拠がエゴイズムに触れるものであるか、通過したところにある。

 

としている。最後の文は意味がわかりにくい。「か」と言っているが「触れる」と「通過」するとは対となる概念ではない。「もの」と「ところ」もしかり。「とどまるかさらに進むか」「触れるか無視するか」の意味なのだろうか、よくわからない。「あるか」「ある」の呼応も変だ。エゴイズムを主題とする意見の「論拠」としてエゴイズムに触れるか否かというのは、「論拠」という言葉の使い方としても間違っている。この後、

 

⑴この下人の心理の推移を主題としあはせて生きんが為に、各人各様に特たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。思ふに彼が自らの恋愛に当って痛切に体験した養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと醜いながらも、生きんが為には、それが如何ともすることの出来ない事実であるといふ実感が、この作をなした動機の一部であつたに相違ない。もし理想主義の作家であったならば下人が盗人とならうと思った心を嫗の醜い行為の前に翻然と忘れて義憤を発する所で巻をとぢるか、或はさうした悪心をすて去らしめて結局するであらう。しかし龍之介は却ってそこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめてゐる。さうしたエゴイズムの醜さをのがれやうとすれば彼の生存を否定するよりほかはない。ここに龍之介の感じ且つ生きたモラルが見える。(吉田精一芥川竜之介』新潮社)

⑵ 一見して分ることは、作のテーマが生存のためのエゴイズムにあるということだ。下人の所行を悪として指弾するものも、彼と同じような立場におかれたなら、やはり、あのようにふるまうであろう。いや、すでに連日ふるまっている。食を得んがためには鶏から卵を奪い、職を得んがためには、同じ希望者を競争から蹴落して生きている。やむを得ない必要悪とこれをしもいうならば、人生とは苦汁に充ちた修羅場の異名にすぎないとなすペシミズムが、ここにはすでにのぞいている。(長野嘗一『古典と近代作家』有朋堂)

⑶ 作者は、人間とは或条件、或きっかけで正義の人となるが、また或条件、或きっかけで悪へも簡単に動くものであるとの人間認識を示しているように思う。少なくとも作者の視点は、人間のエゴイズムの側にのみでなく、善悪の両面をみつめていると思う。 (駒沢喜美)

⑷芥川の暗黒そのもの、人間が醜悪なエゴイズムを露出して生きることを肯定し、讃美したのではない。ブルジョア的俗物主義の社会的外面的な道徳や宗教が、人間生命を疎外して、自己=人間の醜悪さを隠蔽し、偽善と虚飾を誇示することに反発し、真実の人間的な救済を求めたのである。(伊豆利彦「文学」昭53・1月号)

 

という四つの説が紹介されている。前二人は主題をエゴイズムだとし、後二人はエゴイズムではなく他のものだとしている。以上から考えると、「共通している点はエゴイズムという言葉を使った点で」というのが正しい。つまり、自分の説を表明する場合に、エゴイズムに触れなければならないほど、エゴイズム論は浸透していたことがわかる。

「羅生門論2」十七 角川書店教授資料 昭和五六年度版

 

 角川書店は昭和五一年から採録を始め、平成十四年まで、連続で採録する。角川書店は、吉田精一氏の「近代文学鑑賞講座11」(角川書店1958)を出版していて、「枚挙がない」参考文献の一部としてこれを最初に挙げている。

 しかし、主題については、

「混迷と動乱の時代、極限の状況に追い込まれた若者が見せたセンチメンタルな心の揺れと、その結果としての酷薄な生の選択。

として「エゴイズム」の語は見られない。

 「私の授業プラン」として千葉県立天羽高等学校の猿田重昭先生の案が紹介されている。「作品観」の中で

 

 この心理の変化と行動は、全く衝動的であり、周囲の条件にあおられて行動する人間の弱さが感じられる。老婆の着物を剥ぎ取る部分にしても、理由付けがなければできない、人間の良心とも読み取られ、環境によって変質する人間の心理を見事に描いたと言えるであろう。老婆の行為を見て、憤りを覚えるのも、反射的、衝動的であり、悪を憎む理念とはやや異質のものである。

 ここでは環境の変化によって、変質する人間の心理や行動が暗示され、理由づけがなければ悪へ踏み込めなかった下人の未来への可能性も、一面には読み取れよう。

 しかし、芥川の書簡や、生きた時代の状況から見て、作品の末尾は善悪の一方に運命付けられないとは思うものの、エゴの闘いの場としての人間の生きざまが感じられ、下人の未来は人間のエゴイズムの闘争の場へほうりこまれていく、無限の修羅場へつながってゆくように感じられてならない。

 

とある。外的刺激により考えを動かされるものとして人間を捉え、「作品の末尾は善悪の一方に運命付けられない」としているという考えに私も全く同感である。にも関わらず最後にその片方でしかない「エゴイズム」が出てきたのはなぜなのか。教育現場には既に「エゴイズム」は浸透していて、「環境による変質」と一般的な解釈である「エゴイズム」を結びつける手段として、猿田先生は「未来」を持ち出されたのではないだろうか。私も授業をしながら、繰り返される心理変化と文末のエゴイズムがどうも繋がらずいつも授業が納得できなかった。しかし、今は、「エゴイズム」は外的刺激による変化の一つに過ぎず揚げ足を取っただけで、下人に哲学なんてないと考えると、実に統一感の取れた素晴らしい作品に「羅生門」は見えてくる。

 角川の指導書の指摘した「センチメンタルな心の揺れとその結果としての酷薄な生の選択」は、実に素晴らしい主題提起だと思う。テーマに深く関わる語を外国語表記する方法は、先行する作品「ひょっとこ」「虱」にも見られ、「羅生門」中のsentimentalismは無視できない言葉である。また、拙著「羅生門論」で指摘した芥川の「defence for “rasho-mon”」にある

 “Rasho-mon” is a short story in which I wished to “verkörpern” a part of my Lebensanschauung-if I have some Lebensanschauung,--゛but not a piece produced merely out of “asobi-mood”. It is “mora1” that I wished to handle. According to my opinion, “mora1”(at least, “moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.

羅生門』は私の人生観―もし私に人生観があるとしたら―の一部を描こうとした小説である。しかし、単に「遊びムード」から制作された作品だというのではない。これこそ私が扱いたかったモラルなのだ。私の考えとは、「モラル」(少なくとも凡人のモラル)は、その時々の状況で生まれるその時々の印象や感情の産物だということなのだ。    (小林訳)

と矛盾しない。しかし、その「モラル」を手放しで認められるほど芥川自身は単純ではなかったと私は思う。そうした「凡人のモラル」の先には「黒洞洞たる夜」が待っているだけだと突き放しているのである。

「羅生門論2」十六 現代文学鑑賞大事典より

現代文学鑑賞大事典 明治書院 昭和四十年(1965)

 

 尚学図書の指導書に、 出典を「現代文学鑑賞大事典」とする記載があったので調べてみた。

 

芥川龍之介」より

「【羅生門】短編小説。大正四・九月に執筆され、同年一一月の『帝国文学』に掲載。署名は柳川隆之介(目次に柳川隆之助とあるのは誤植だろう)。後に第一短編集『羅生門(阿蘭陀書房、大六・五、大八・八新潮社より再販に収録。これには初出および初版と現行全集とのあいだに、本文中に若干の、だが重要な異同がある。小説の骨子は「今昔物語」巻二九所収の〈羅城門登上層見死人盗人語〉に材をあおぎ、一部に同巻三一 〈大刀帯陣売魚嫗語〉の挿話が用いられている。時は平安朝末期、舞台は京都。ある目の暮れがた、ひとりの下入が羅生門の下で雨やみを待っていた。主人から暇をだされ、途方にくれていたのである。火事・つむじ風・飢饉などが相ついで、洛中のさびれかたはひととおりではない。羅生門の楼上には餓死者の死体が散乱していた。下人はその楼上で、死んだ女の髪を抜く老婆を見た。髪を抜いて鬘にする、と老婆はいった。そうしなければわしが飢え死ぬ、この女だっておなじようなことをしてきたのだ。〈「きっと、さうか」老婆の話が完ると、下人は嘲るやうな声で念を岬した〉。彼はすばやく、老婆の着服をはぎとった。こうしなければ己も餓死する体なのだ。彼は〈黒洞々たる夜〉のなかに駆けさっていった。〈下人の行方は、誰も知らない〉(この最後の一行が、初出では〈下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった〉となっていた)。作者が二四歳の時の作で、その資質と可能性が自己の方向をはじめて確保した記念碑でもある。吉田精一の指摘もあるように、全体の構成は静・動のあざやかな対照で統一され、(傍線は筆者)周到な計算がゆきとどいている。原典の素朴で簡略な記述から場面を再現する想像力と描写力もみごとで、また、たとえば下人の頬の〈大きな面飽〉などの小道具の効果にも、短編作家としてのすぐれた才能が見られる。しかし小説の主題は暗い。へびを切り売りした女と、その女の髪をぬく老婆と、その老婆の着衣をはぐ下人と、彼らは生きるためには仕方のない悪のなかでおたがいの悪をゆるしあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する。なぜなら、精神の裸形とでも呼ばねばならぬ生の我執はすでに罪ではなく、人間存在のまぬがれがたい事実にほかならぬからである。芥川がこの小説で書こうとしたのは、追いつめられた限界状況に露呈する人間悪であり、いわば存在そのものの負わねばならぬ苦痛であった。老婆のさかさまの白髪と、黒洞々たる夜と、行くえも知らずかけさった下人とこの一幅の構図のなかに、若い芥川がいかに絶望的な人間認識にたどりついていたかが語られている。同時に、そうした陰鬱な主題のこの小説が、一面では構成上のみごとなバランスを保ちえている事実にも注意しておく必要がある。小説の世界は作家の現実と次元を異にした場所で、自己を閉ざしている。『羅生門』は芥川の虚無の所在を明らかにすると同時に、彼がその暗い部分をそれ自体として完結した短編的世界に閉鎖しうる、すぐれた才能に恵まれた作家であることも明らかにする。そして、思想と方法のバランスが崩れたとき、後年の悲劇が胚胎する。その意味でも、これは芥川竜之介の文字どおりの処女作であった。」

 

 文中に「吉田精一の指摘もあるように、全体の構成は静・動の鮮やかな対照で統一され」とあるが、「レポートの書き方」(至文堂1952)によると「静・動説」は高校生の説であったはずだ。執筆者一覧に、平岡敏夫三好行雄吉田精一の名が見える以上、吉田氏は当然この項目の編纂に関わっているはずで、吉田氏自身が「レポートの書き方」(至文堂1952)で高校生のレポートを紹介した後、

参考資料をあげていないことが惜しい。「羅生門のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。」というのが、その「普通いわれている。」のは、だれがどこでいっているか、こういうためには、そういう書物を見ていなければならないのだから、それをあげるべきである。

と書き、明治書院の教科書では

参考書を剽窃したり、資料の孫引きをしたり、ダイジェスト版をでっちあげるなど、一口でいえば、他人の意見を自分の意見らしく見せかけようとするもの、また自己の結論のつごうのよいように資料をゆがめたと思われるものなどの類は、もっともいとわしい。

と書いているのだから、「現代文学鑑賞大事典」においても、吉田氏指摘ではなく、高校生の指摘であると書くべきであった。「静動説」が吉田氏の説なら、「レポートの書き方」に紹介された高校生のレポートの存在自体が疑われてしまうのだから。