maturimokei’s blog

俺たち妄想族

イーロン・マスクのTwitter買収

 私の恐れていたことが現実となった。イーロン・マスクによるTwitter買収である。世界は破滅への第二段階に入った。美しい言葉を唱えて、力で押さえつける者を信用できない。プーチンはネオナチからの救出を唱え、武力で制圧する。マスクは言論の自由を唱え、財力で支配する。今から起こることは、まずアメリカ国内でのウクライナ支援への反対運動である。Twitterのアカウント凍結を解除されたトランプは、アメリカンファーストのもと、外国のことはほっておけ、ウクライナには金を返す財力はないのだから、支援損だ、と言うだろう。国内の白人の失業者に給付金をというだろう。国営ロシア放送が、フェイクニュースプロパガンダを広めているように、世界中のTwitter上でフェイクニュースが氾濫するだろう。言論の自由が守りたいなら、Twitterの利用が止められているロシアや中国でも利用できるように、頑張ってほしい。プロパガンダを止める有効な手段であることは間違いないのだから。ウェイボーやテレグラムを買収する方が先にすべきだったのは間違いない。

 こうした私の意見の表明も表現の自由が保障されているからだ。表現の自由は保障されなければならない。民主主義の必要条件だ。私の考えは単なる憶測で、マクスへの誹謗中傷かもしれない。しかし、私は個人の利益のために投稿しているのではない。表現の自由は、公共の福祉のためという前提を忘れてはいけない。公共とは、今周りにいる人という意味ではなく、未来の世界の人々という意味である。

 私にはマスクの目的がわからない。テスラは彼が発案し設立した会社ではなく、彼は投資家に過ぎない。彼の目論見は当たり、テスラは株価において11年7ヶ月で公募価格の270倍(Yahoo!ニュース)になった。時価総額トヨタを抜き、自動車業界のトップになった。彼が創設した会社はスペースXだ。もちろんロケットは電気では打ち上げられないし、排ガス回収装置もついていないから、打ち上げる時の煤は大気に巻き散らされ環境負荷を引き起こす。電気自動車とて放射性核廃棄物を放出する原発に依存しないと走れない。しかし、電気自動車やロケットには未来を先取りする夢があり、無邪気さがある。Twitter買収の目的は何なのか。株で儲ける為なのか。彼は世界の未来にどんなビジョンを持っているのか、私にはわからない。

「羅生門論2」その三 昭和32年度教授資料

 『羅生門』の高校国語教科書の定番化について、幸田国広氏の研究がある。「定番教材」の誕生 : 「羅生門」教材史研究の空隙 - https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokugoka/74/0/74_KJ00008931246/_pdfより引用する。

羅生門」の場合、大正4(1915)年に『帝国文学』に掲載されてから、数度の改稿を経た本文が、戦後になってから国語教科書に採録されるまで実に約40年を要している。戦前から継続の芥川教材としては「戯作三昧」「手巾」「鼻」「蜜柑」等があったが、「羅生門」は昭和30年代になってようやく高等学校用国語教科書に登場する。では、その後、どのような軌跡を描いて「羅生門」が、現在いわれるところの「定番教材」となったのか。野中潤は、戦前には採用がなかった「羅生門」が戦後十年経過した頃「採録されるや、瞬く間に定番教材としての地位を獲得し、今日まで五十年以上にわたって教室で読み継がれている」とし、その理由は「生き残りの罪障感を解除し、許しや癒しを得たいと欲望する人々の無意識的な情念」にあるという。だが、「羅生門」の〈定番化〉は、この後見ていけばわかるとおり、けっして「瞬く間」になされたのではないし、繰り返しになるが一定の年月を経た後にようやく「定番」が誕生するのである。また、戦中世代の「罪障感」という「起源」の仮説のみで「定番教材」の来歴とその理由を語ることには無理があると思われる。では、「羅生門」はいつから「定番教材」となったのだろうか。まずは〈定番化〉の起点を確定する作業が不可欠である。

 

昭和32年にはじめて3社に採録されてから平成25年版まで、全19社192種の教科書に採録されている。初めて採用した明治書院数研出版、有朋堂のうち、当時の必修科目「国語甲」用は明治書院のものだけであり、他はいずれも選択科目「国語乙」用である。「国語乙」教科書は戦前の国文読本の趣向を引き継ぎ、古典名文選がそのほとんどだが、当該二教科書は数少ない近代文学を対象とした文学史のエッセンスを凝縮しその理解を促す資料となる内容のものであった。どちらも抄録で、後半の老婆と下人のやりとりから結末までが採られている。また、明治書院版も高校二年生用に採録されており、高校一年用に採録したのは翌年発行の三省堂版が初となる。

 

 というように

①「羅生門」の教科書採択は戦後に始まった。 

②最初は抄録であった。

③最初は高校二年用に採録された。

ということである。それらは私を驚かせたが、同時に私の持っていた疑問を解決するものであった。既に拙作「羅生門論」の「五最後に」で述べたとように、「羅生門」は「高校一年生の一学期にはあまりにアナーキー過ぎる。むしろ二年生後半以降に扱うべき作品ではないだろうか」と私は考えていた。しかし、戦後から採択が始まったこと、しかも後半の抄録であることを知った時、浮かんだ考えは、野中潤氏の「生き残りの罪障感を解除し、許しや癒しを得たいと欲望する人々の無意識的な情念」に合致したという指摘と同じものだった。戦争中、終戦直後、生きんがための犯罪はあっただろう。教科書において、それを仕方がないこととして許すのは社会的にもありうることだと。だが、その考えが、日本でGNP世界2位の時期を超え、学校に人権学習が導入され、そうした価値観がおもて上葬られているにもかかわらず、なぜ採録され続けるのか。そうした疑問に「定番化について」で幸田氏は答えてくださるが、戦後=贖罪という私の思いが全く的外れだったことは教授資料を手にして間もなくわかった。冷静になれば、採録が始まった昭和三十二年は、戦後既に十二年経っているわけで、終戦時に三歳だった子供に贖罪の必要があろうはずがない。

 

 まず、教授資料の入手のために、各教科書出版会社に過去の資料の閲覧希望メールを出した。返事は「確認が難しい」「準備できません」「希望に添えません」ということだった。教科書図書館の蔵書を検索すると、かなり揃っているようだった。電話をすると、館内閲覧しかできないということで、東京に行くしかない。親類の結婚式のついでに訪れることとする。幸い京都府立図書館が四冊所蔵していたのを、地元の市立図書館に870円で郵送してくれたので、手にすることができた。幸い最も古い昭和32年度版だ。これが見たかったのだ。

 

「日本現代文学選 教授資料」

数研出版)川副國基編著 昭和三十二年  月  日発行 55円

                   ※日付空欄筆者注

 はしがきに

一、これは文部省検定済高等学校国語科用教科書「日本現代文学選」の教授資料として編纂した。

とあるように、選択科目だったらしい。おそらく最も古い教授資料の一つだと思われる。教授資料六〇頁に「羅生門の引剥《ひきはぎ》」として、わずか1頁が割かれているだけである。語釈が【瞼の赤くなった云々】から始まり、【意識の外に追い出されていた】まで十語についてある。解説もわずかに

 

【参考】新人らしい当時の芥川の気負った文章である。いかにも新鮮なぴりっとした描写や文章で芥川の理知的作家であることを思わせるところがある。

【研究】

一、【語釈】参考。

二、「瞼の赤くなった、肉食鳥のような鋭い眼」から「鴉の啼くような声」までによくあらわれている。即ち、眼付き、唇、喉仏、声などの描写に、思わず嫌悪を感じるような描き方がある。

三、老婆が生きるためには死人からものをとってもよいと言ったことに対して、それなら自分だって同じ行為がゆるされる筈だという勇気。

四、老婆に対して冷然としてその話を聞いている下郎(ママ)、老婆を見下して軽んじている下郎、太刀に手をかけ、時によっては老婆を切り殺そうとかかっている重大な場面の下郎が、一方の手では実に些細な顔のにきびを気にしているというところにおのずからユーモアがわき出ている。

 

 とあるだけである。ちなみに参考文献の記載はない。幸田氏が指摘されたように、「羅生門」後半の抜粋であるようだ。この教科書は、「羅生門」だけではなく本文の一部を抜粋して掲載している。例えば「舞姫」はタイトルを「エリス」として、語釈は【獣苑】から【そが傍に少女は羞を帯びて立てり】までであることが示すように、抜粋を作品の主題部分に絞ろうという観点があるわけでもない。むしろ表現や描写に力点があるように感じられる。「羅生門」では老婆の描写が取り上げられている。もちろん、表現の読み取りなしに主題探究はないのだが、昭和三十年台の他の教授資料を見ても、表現に対する注意の喚起はかなり見られる。

 この教授資料にはエゴイズムの文字はなく、「それなら自分だって同じ行為がゆるされる筈だという勇気」とある。また、にきびを重大な場面に些細なことを気にかけている「ユーモア」ととらえている。こうしたアンバランスに伴うユーモアは、拙作「羅生門論」にも通じるものであり、同感だ。昨今は、にきびを下人の迷いや決断や良心の象徴とする解釈を見受けるが、逆ににきびに象徴的な意味を与えるのはエゴイズム論を前提にして引き出した解釈ではないのかという疑問を持つ。下人は揚げ足を取っただけで、決断したわけではない。責任転嫁しただけなのだから。芥川はチグハグした可笑しさを描こうとしていたのに、後世の者がしかめっ面でシリアスに解釈しようとしている気がする。この教授資料には参考文献が示されていない。その分自由に編集者は感想が書けたのではないか。

 

 

「高等学校新国語 総合一 教授資料」

三省堂)土井忠生編 昭和三十二年六月十日発行 274円

 

 土井先生の名前を見て驚いた。私の大学一年前期の選択ゼミの教授である。私の文学研究の第一歩を支えていただいたのに、いつもゼミ中にお茶を飲ませてくださる優しいおじいちゃんという記憶しかない私の怠惰が悔やまれる。教科書を編纂なさって十五年後にお出会いしたようだ。おそらく必修科目だったのだろう、この教科書には、「日本現代文学選」の副読本的な性格とは違い、全体を統一しようという編纂意思が感じられる。

 単元概説(p 18)によると、「Ⅳ人間性」の単元に入れられ、「走れメロス」「羅生門」「塔の上の鶏」で構成される。

 

第一課は、理想主義的な青年前期の心理には最も適した材料であろうと思われる。(略)第二課は、かなりどぎつい、冷酷な人間観察の物語で、少年向きのものではない。しかし、高校一年と言えば、こういうものをもつきつけて、人生をより深く考えるきっかけを作ってやることは重要であろう。特に、第一課のうらとして、あわせて人間性をより深く考えさせたいために、採用したのである。

(略)第三課は、西欧の作品で、しかも、一、二とは違った現実的な短編というねらいで選んだ。ユーモアのある、また皮肉な小説で、生徒にも親しまれるだろうと思う。

 

 とある。ちなみに「塔の上の鶏」は、森鷗外の訳で、有名になりたかった裁縫職プロルが、塔の上の銅の鶏をこっそり盗んで人々の話題をさらい満足するが、いつしか人々は興味を失い、不満になったプロルがしつこく話題にするので捕まってしまうという話だ。「現実的」と概説にあるのは、「だれの中にもある」(p 99)という意味である。「あやまったヒロイズム」と教授資料に書かれている。「一般の政治家やその他の、みにくい、しかも偽装された権力意思ほどおそろしく、世に害のあるものはないが、プロルはかわいそうな犠牲者である」とある。有名になりたいための盗みをエゴイズムとはせず、「ヒロイズム」「権力への意志」として峻別しているのは注意すべきだ。原作者オイレンベルクが良いのか鷗外が良いのか、おもしろくて魅力的な名訳である。これら短編三作品によって人間の内面を多角的に見つめようとしたという編纂の意図はよくわかる。「メロス」は揺れを通して善を行い、「下人」は揺れを通して結局責任を転嫁して悪を行い、「プロル」は揺れることなく悪を行うのである。

 「指導過程」によると、これら三作品を八時間で行うとある。一作品三時間で、第一時が通読、用語、構成、第二時がテーマ、第三時が表現という流れである。どの時間も検討、討議、話し合いで行われる。当時の高校生がいかに優れていたか(?)よくわかる。実際にこの時間配分で可能だったのかはわからないが、第一時で全体を把握してから討議を行う姿勢は共感できる。現在主流の教員の計画のもとに、プリントや黒板を使って、前から細かく解説していく授業に読書の喜びはあるのだろうか。そうしなければなければならないほどに、現在は読解力が落ちてしまっているのだろうか。 

 注釈は十四語。この教授資料には、エゴイズムの文字が見える。エゴイズムが使われた文を以下に全て抜粋する。

 

1「テーマは、結局みにくいエゴイズムの強調ということになり」

2「彼の好んで読んだ「今昔物語」の巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語」の原文に近代的な味を加え、下人の心理の推移を主題にして人間の生きんがためのエゴイズムをあばいたものである。」(傍線筆者)

3「人間の中につねに冷酷なエゴの葛藤を見る芥川の冷めた目は」

4「今まで対等な立場にあった老婆を征服し、目的を達したので、得意と満足が彼の心を占めるようになる。ここにエゴイズムが悪の衣をまとって頭をもたげるすきが生じ、老婆の「この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」という答えにもう一度憎悪を感じるが、」

5「すでに条件がそろった上に、答弁の中に現れた老婆のエゴイズムに誘われて、下人の心に、頭をもたげていたエゴイズムが爆発し、悪の実行となる。」

6「人間の心の奥にある暗いエゴイズムを書いている。善にも悪にも徹底できない、中途半端な人間のあわれな姿を良心とエゴイズムとの葛藤を通して作者はシニックに眺めているのである。その目の中にはまた深い哀感が流れている。そして、結局人間を最後に支配しているのはエゴイズムなのだという深い諦観がそこにある。」(傍線筆者)

7「疲弊した時代における、追いつめられた人間の持つエゴイズムを描いている。」

8「上流育ちの白樺派と異なり、龍之介ら小市民階級の出身者は、人間性を現実の上に深くえぐることによって、そこに共通するエゴイズムを見出し、宿命的な人間のわびしさを感じることが多かった。」

 

(参考文献)書名はほぼ「芥川龍之介」なので割愛し、著者名のみを記す。

文藝春秋、大正文学研究会、吉田精一、岩上順一、下島 勲、山岸外史、片岡良一、恒藤 恭、宇野浩二中村真一郎、文芸別冊

※ 吉田精一中村真一郎の名は二度見える。

 

 私が注目しているのは、2であるが、この「下人の心理の推移を主題にして人間の生きんがためのエゴイズムをあばいたものである。」は、「下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。思うに彼が自らの恋愛に当たって痛切に体験した、養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと、醜いながらも、生きんがためにはそれが如何ともすることができない事実であるという実感が、この作をなした動機の一部であったに相違ない。もし理想主義の作家であったならば、‥(略)‥しかし龍之介は却って、熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる。善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし、そこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめている。」(「芥川龍之介吉田精一三省堂・1942 傍線筆者)から採られたものと思われる。教科書としては同じ三省堂から出ている吉田氏の論を無視することはできなかったのであろう。6、7も同じ視点で書かれている。しかしこの教授資料には、エゴイズムの根拠として別の視点が示されている箇所がある。8の当時の文壇の傾向からの分析が一つ、もちろんこれは参考的なものでしかないが、注目すべきは4である。4は文脈からの指摘であり、一考に値する。得意と満足がエゴイズムの生まれる条件として示されているのだ。5と合わせると、優位性の保持をエゴイズムと呼んでいるのであり、2の吉田氏の「生きんがため」という観点とは根本的に異なる。むしろ、仮にエゴイズムという言葉を使うならば、優位性の保持の方がふさわしい気がする。「生きんがため」飢え死にを避けるための盗みを果たしてエゴイズムと呼ぶのか、私は納得できない。

 「生きるため」ではなく、「生きんがため」というフレーズは、「ん」の古典文法上の正確さだけではなく、撥音便の耳障りの良さも相まって、この後長く「羅生門」解釈を支配していく。

「羅生門論2」その二「高等学校国語教育情報事典」より

 では、『羅生門』はどのように指導されてきたのであろうか。芥川のノートに書かれたように価値基準の無さを主題として指導する教授資料は存在するのだろうか。また、一世を風靡したエゴイズム論はいつから指導書に現れたのだろうか。

 「高等学校国語教育情報事典」(1992年大修館)で鳴島甫氏は「衆知のように、『羅生門』の主題の読み取り方にはいろいろある。」というように一つに絞ってはいない。続いて「その代表的なものを挙げてみよう。」と九種が挙げられている(p205)。どういうわけか発表順の配列ではなかったので、以下、発表順に並べ替えて示す。

 

〔1〕 芥川は下人の姿のなかに、当時のアナアキストの思想と行動を表現した。しかし、それと同時に、かかるアナルキスムは、それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ないではないか、と芥川は考えた。(岩上順一『歴史文学論』1942 中央公論社

〔2〕 下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。(吉田精一芥川龍之介』1942 三省堂

〔3〕善と悪との矛盾体である人間を、人間現実をそのままに示しだそうとした。(駒尺喜美芥川龍之介の世界』1967 法政大学出版会)

〔4〕 私はかつて『羅生門』を律法からの解放である、自分を縛る様々な束縛からの解放の叫びである、と『批評と研究 芥川龍之介』(1972年筆者注)で論じた。(関口安義『解釈と鑑賞』1986 ・ 7 )

〔5〕 『羅生門』で描いてみせたのは地上的なあるいは日常的な救済をすべて絶たれた存在悪のかたちである。人間存在そのものが、人間であるがゆえに永遠に担いつづけねばならない痛みであり、生きてあることにまつわるさまざまな悪や苦悩の根源である。(三好行雄芥川龍之介論』1976 筑摩書房)

〔6〕 極限状況に追いこまれたときでさえも、人間はなおも自己の反道徳的行為を正当化せずには安心できない矛盾をはらんだ存在である、ということが書かれている。(勝田和學・『羅生門』の核心・『日本文学』1977 ・ 2)

〔7〕 下人の心理の展開を、大人になり切れない青年の未熟さを表現するものとして理解するとき最も納得的であると私は思うし、その未熟さがのりこえられていくのが、この作品のおのずから語りかけてくる主題であるように考える。(門倉正二『国語研究教育講座』1984 有精堂)

〔8〕老婆の行為や脆弁に示される生き方(日常性の中に潜む俗悪なエゴイズムによる生き方)を侮蔑しつつ、下人は自分の力を誇示していくという生き方(自己を支える「強さ」としてのエゴイズムによる生き方)を獲得していく。(清水康次『解釈と鑑賞』1986 ・ 7)

〔9〕羅生門という題名に象徴される、自然と人事をつつみこんだ世界そのものを主題と考えたい。(平岡敏夫『国語I指導資料』大修館書店)

 

以上について、感想を述べる。

〔1〕突飛な印象を受けるが、それは「あらゆる人間は饑の前には暴力的な行為に狩り立てられるものである」「当時の労働運動の根拠をこの下人の行為に設定し」「老婆の形象の中には暴力的行為の理論に対する否定が含められている」という岩上の「アナルヒスム」の内容について触れた部分を削除しているからだ。「それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ない」というパラドックスの指摘は的を射ている。

〔2〕「下人の心理の推移」が主題と言えるなら、全ての小説において「主人公の心理の推移」が主題と言えるので、意味をなさない。「生きんが為に」「持たざるを得ぬ」ものを、餓死を防ぐことをエゴイズムと呼ぶのがふさわしいか疑問がある。

〔3〕「善と悪との矛盾体」は悪くないが「人間現実をそのままに」が不要ではないか。

〔4〕本文の何を指して解放と言っているのかよくわからない。事典の制作者は内容がわかる程度に抜粋箇所を増やすべきだった。

〔5〕吉田精一も彼の『芥川龍之介』でよく似たことを書いていたが、この論はキリスト教の原罪論を「羅生門」に被せただけの気がする。もう少し作品の個性に基づき細かく分析する必要があるのではないか。描かれたのは悪だけではなかったと思う。

〔6〕作品の個性に触れた分析だ。

〔7〕無関係な気がする。何をもって未熟というのかよくわからない。老婆の着物を剥ぐことで「未熟さがのりこえられていく」とは思えない。

〔8〕作品の個性に触れた分析だ。

〔9〕「自然と人事をつつみこんだ世界そのもの」は広すぎるし、それがどうだと言わないと主題にはならない。ちょっとびっくりしてしまう。却下。

 こうしてみると、抜粋の仕方が不適切なのか、納得できるものが少なく、主題の体をなしていないものもある。精査されず羅列しただけで、「代表」と言って良いのかためらわれる。パラドックスという視点からは1、下人が矛盾を抱え一貫性がないという視点では〔3〕〔6〕〔8〕が作品の本質に近いと思われる。しかし、芥川が述べている「moral」は「occasional feeling or emotion」の「production」だということに触れたものがない。1957年から採録が始まりながら、1992年時点で、大修館のいう「その代表的なもの」九種の中に、芥川自らが記した主題は含まれていないのである。

 鳴島氏は授業の例として、最初に「羅生門」を読ませ、主題について簡単に書かせた後、九種の主題を紹介し、1生徒の書いたものと同じもの、2同じではないが面白いと思うもの、3反論したくなるものという質問をされた。「主題を読み取る学習指導は、順次読み進めていって、最後に主題をひねりだすといったものではなくして、「主題を中心に据えて」読みの学習を仕組んでいくものであって、そうした方が討論もできるし、学習の活性化も図れるわけである。」と締め括られている。選択肢問題全盛期にふさわしい意見である。しかし繰り返し書くが、生徒が選ぶ九種の中に、芥川自らが記した制作意図は含まれていないのである。選択肢問題の持つ限界がここにも如実に現れている。「選択肢の中に適当なものがない」という選択肢を含めることで、学問は始まるのかもしれない。

プーチンの飢餓作戦

 昨日、プーチンは一方的に「マウリポリ制圧」の勝利宣言をし、アゾフスタリ製鉄所への突入を停止するよう命令した。彼はヨーロッパでも最大級の製鉄所が欲しい。突入すれば、多くのロシア兵の犠牲が出る。かといって生物化学兵器を使えば後の使用に支障をきたす。だからウクライナの人々が餓死するのを待つことにしたのだ。最も残酷で卑劣な方法だ。作戦を中止しているのだから、勝手に立てこもっている、ロシアに非はないという論法である。ならば、食糧搬入を認めるか?否、「ハエも飛ばせない」とプーチンは言ったという。食糧を搬入するヘリコプターを撃ち落とすという意味だ。中にいる人々を助けるために、世界の国々は大量のドローンを飛ばし、集中砲火を浴びても一割でも届けられるようにすべきだ。日本も偵察用ドローンだけでなく、物資運搬用のドローンも贈られないか。しかし、操縦者と操縦場所が確保されたとしても、撃ち落とされたドローンに積まれた食糧の大半はロシア兵のためのものになってしまうのだろうか。

 製鉄所の中で、絶望的な飢餓地獄が始まるのをプーチンは待っている。

 

兵糧攻めの惨状)

https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210828-00249883

 

イーロン・マスクの危険性

 イーロン・マスクTwitterを買収しようとしている。「表現の自由を守るため」だそうだ。Twitterはアカウント削除の基準が明確でなく、恣意的だと言うのだ。多くのフォローワーのいるアカウントが凍結されているとイーロン・マスクは言う。私はTwitterには詳しくないが、真っ先にその条件で頭に浮かぶのは、トランプ前大統領だ。彼は連邦会議所襲撃占拠事件を煽った咎でTwitterからアカウントを凍結された。トランプの信望者は多い。

 表現の自由とは、何でもかんでも、嘘も真実も表現する自由のみを指すのであろうか。自分の管理する場に、不適切な表現を禁じるのも表現の自由であろう。もし、イーロン・マスクが何でもかんでも言わせたいなら、そういうSNSを立ち上げれば良い。世界一の金持ちなんだから。金の力にあかせて買収して言うことを聞かすことで表現の自由が守れるとは、私は思わない。

電子式ミッション

以前に「プリウスのミッション」で書いた、ニュートラル位置に常に戻る電子式ミッションは、プリウスのみならず、ニッサンeパワー、三菱のプラグインハイブリッドにも使われていた。同じ構造なのは、社外品で供給元が同じなのかもしれない。

 私がこのミッションが良くないことを前回ブログで述べたのは、渋谷交差点母子死亡事故の直後に、私の知っている方が奥さんを誤って轢き殺してしまったのがきっかけで、2人が運転していたプリウスが、試乗マニアの私が50年間で違和感を感じた数少ない車の一つだったからだ。踏み間違えがなぜ起こったのか、そこにメーカーの責任はないのかという疑問があったからだ。ベストカーウェブでも誤発進の要因ではないかと調査をしていたのを見つけた。車専門雑誌もよくないミッションだと感じたのだ。

https://bestcarweb.jp/feature/column/108221/amp?prd=1

 トヨタの最新EVのbz4xは、押し込み回転式の新電子式ミッションを搭載した。間違ってチェンジすることが起こらないミッション構造だ。トヨタも現行の電子式ミッションがよくないことを認めたのだろう。

 

日本の安全保障の見直しを急げ

 これは敵基地攻撃能力の保有核武装について述べるものではない。むしろ逆である。

ロシアの蛮行は今までの日本の安全保障のあり方の間違いを露呈した。理性のある人間は戦争を起こしたりしない。理性がないから起こすのであり、理性のない人間は残念ながら存在する。ではどうするのかという具体策の立案を今迫られている。

 国内においては警察に防御のための銃の使用を認めている。理性のない国に攻められたとき、防御のための自衛隊出動もありうると思う。しかし日本は武力による国際紛争の解決を憲法九条により否定している。解決に武力を使わずどうやるのか。国際社会は現在経済制裁でロシアに臨んでいる。いわゆる兵糧攻めである。経済制裁により相手国の内部から政権を崩すのである。今の日本にそれは可能か。

 日本が国を守るために取り組まなければならない喫緊の課題を示す。

 

1 現在11%のエネルギー自給率の向上

 広い国土を持つロシア、カナダ、アメリカ、中国、ブラジル、オーストラリアは地下資源に恵まれる可能性は高く、実際そうである。ロシアが戦争を始めたのも、天然ガス重油が豊富だからである。それに比べ日本は国土が狭く、89%のエネルギーを輸入に頼っている現在、エネルギー兵糧攻めをされてもできる立場にない。せめてされない状態にしなければならない。そのために日本の自然を生かした地熱発電、潮力発電、水力発電の研究に国は力を入れるべきだ。特に地熱はすぐにでも利用できるが、国立公園に関する法律が弊害になっていると聞く。建屋のデザインを風景にあったものにする、小規模発電所を多数作るなどして美観を守りながらできるはずだ。ダムは自然破壊につながり、立退の問題もあるが、小規模水力発電の研究を進めれば、そうした問題も解決できるのではないか。

 エネルギー逼迫と言っても、安易に原発に頼るべきでない。関西電力は、東電の福島原発事故以来手の平を返してやめていた原発コマーシャルを、最近はカーボンニュートラルの掛け声に励まされ、喉元を過ぎたとばかりに子供まで使って再開した。電気自動車は都会の空気を美しくするが、発電のための汚れた空気や物質を地方や未来に追いやることで実現するものだ。事実通産省廃炉後の放射性廃棄物の処理を海外処理しようとしている。自分たちの貧困なイマジネーションが届かないという理由で、実際に貧困な人々に負担を負わせて幸せと言えるのか。東電の柏崎刈羽原発はテロ対策の杜撰さを指摘され稼働できない状態だ。放射性廃棄物を海外搬送中に海賊に奪われないとも限らない。ロシアの蛮行は、ミサイルで原発を攻撃し手に入れられることを証明した。現代の生活享受のために汚染された核廃棄物を子孫に残すという問題があるだけでなく、原発により、現代の生活自体がすでに犯され脅かされているのだ。原発に頼らない、日本の風土にあった発電を研究するために国防費を回すべきだ。

 

2 現在37%の食料自給率の向上

 外務省の2019年のデータによると、世界の小麦生産は中国25%、インド20%、ロシア13%、ウクライナ5%、ちなみに日本は0.1%だ。ロシアは経済制裁を受けてもエネルギーと食料があるから自給自足していける。未来のないロシアから次第に頭脳流出が始まりさらに国力は衰えるだろうが、兵糧攻めではロシアは滅亡しない。むしろますます儲けるのが中国だろう。中国は供給の減った世界に高値で小麦や石炭を売り、ロシアには製品を売り続ける。漁夫の利である。インドも追随する可能性が高い。

 日本のカロリーベースの自給率37%には贅沢品が含まれているだろうから、生きるための自給率ならもっと高いはずだし、高くできる。しかし、外国に攻められて港湾を封鎖されてすぐに休耕田から米が取れるとは思えない。むしろ常に余剰米を持ち、世界の飢餓地域に浄水器とともに放出し援助できる国になりたい。そうした世界に必要な国は結果として攻められにくい国になるのではないか。

 

3 ワクチン、新薬開発

 アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、中国は自前のコロナワクチンを開発した。ワクチンは国防のためのものだからだ。細菌兵器は国際条約で禁止されているが、条約を守る国が戦争を起こしたりしない。ワクチンを持たないと戦争ができないのだ。だから、ロシア、中国はアメリカのワクチンを買ったりするはずがない。自国で作る必要があるのだ。ノーベル化学、医学賞受賞者を輩出する日本がなぜ開発に遅れるのか。一つは基礎研究に国が補助をしないからだ。もともとそういう風土であったのかもしれないが、すぐ結果が出るものを求める姿勢は安倍政権の時に顕著になった。もちろん、日米安保アメリカが供給してくれるという安心があり、莫大な基礎研究費を節約できるという考えもある。しかし、私は疑っている。ワクチンが国防に関する限り、日本は開発を禁じられているのではないか、そうした密約があるのではないか。サンフランシスコ条約で、禁じられていた航空機の開発を再びできるようになったが、ワクチンはアメリカより早く開発しないという密約があるのではないか。ワクチンを持てば戦争を始められるからだ。私の杞憂妄想だと思いたい。

 ワクチンに限らず、医薬品の開発は国防上有効だ。日本しか作れない薬を作ることが、資源の少ない日本が兵糧攻めできる少ない方法の一つだ。井上ひさしも50年前に書いた『吉里吉里人』で医学立国を国防として提案していた。日本語が医学の基準となる世界を彼は夢見ていた。

 

4 戦闘機購入ではなくドローン、巡航ミサイル開発

 戦闘機は人が乗る。ゆえに撃墜されれば人は死ぬ可能性が高い。しかしドローンは違う。戦闘機は高価だ。安倍首相は2018年に、1機96億円のロッキード35Aを147機買うことを閣議決定した。しかし、ドローンだと1機1億円でもその100倍、1000万円なら1000倍買える。戦闘機は飛行場を破壊されれば飛べない。着陸できない。事実ロシアはウクライナの飛行場を破壊した。しかし、ドローンならどこからでも飛ばせる。戦闘機の優位性は航続距離の長さである。しかし、専守防衛の観点から言えば遠くまで行くのは矛盾である。領海をカバーできる程度の艦船攻撃用の巡航ミサイルで十分ではないか。

 ウクライナ侵攻で分かったことは、ミサイルで街を破壊するだけでは征服したことにならないということだ。兵士が入って市長を拘束するなり、市庁舎を占拠することをロシアは目指している。ならばドローンは航続距離が短くても戦車や車両の侵入を阻止するのに有効ではなかろうか。大都市には地下鉄がある。停電時でも動けるバッテリーを備えた車両を走らせドローンをあちこち配備すれば良いのではなかろうか。有人機は侵略の象徴、専守防衛なら無人機で良い。 

 現在ドローン技術で圧倒的優位に立っているのは中国だ。日本のシェアは世界の数%に過ぎない。しかし、日本の技術力ならきっと素晴らしい国産ドローンができる。次期F X開発費をドローン開発にまわそう。そして平時は被災地の物資運搬に役立てよう。日本は毎年災害に見舞われているのだから。

 

5 ドクターヘリの増産

 ミサイルを撃ち込まれたからといって全員が死ぬわけではない。負傷者の方が多い。負傷者をいかに早く救うかが重要だ。戦闘機は役に立たない。どこにでも着陸できるヘリコプターが必要だ。戦争でなくても、災害時や平時でも役立ち、無駄にならない。

 

6 情報収集能力の向上

 数で劣勢のウクライナの善戦は、米英の与えるロシア軍情報によるものが大きいとされる。旗艦モスクワを二発の巡航ミサイルで仕留めたとされるのもそのおかげである可能性が高い。相手の作戦がわかれば機先を制することができる。GPS補完機である「みちびき」は傾斜静止軌道をとり、日本上空に長くとどまることができ、2023年には7機体制となる。すでにカメラが仕込まれているのか私は知らないが、アメリカの衛星のような高性能カメラを持つものがあれば良い。

 しかし、いくら情報を得ていても、サイバー攻撃を受け、情報が伝わらなければ意味がない。サイバーセキュリティは必須である。

 

7 情報教育

 残虐なウクライナに迫害されたロシア人を守るために、ロシアはファシズムに対する正義の戦いをやむなくしている。ウクライナからはロシアに救いを求めて人々が脱出している。ウクライナは、自らの街をまるでロシアが破壊したかように自作自演で壊すだけでなく、ロシアに侵攻しロシアの子供や妊婦を爆撃している、とプーチンは言う。それを信じているロシア人、中国人は多数いる。国営放送が発表するプーチン支持率80%超は眉唾だが、実際に支持している人はたくさんいるのだろう。崩壊した国の経済を復興させ、失業率を改善し、再び国際社会での発言権を増すまでに国を立て直したことで人気を得たのはまさにヒトラーと同じ道を歩んでいる。プロパガンダ多用もまさに同じだ。偏った情報で戦争に駆り立てられたのは、70年前の日本も同じだった。「それは事実か」「なぜそう言うのか」「それを続けることは人類を幸せにするか」問い続ける姿勢が大切だ。問い続ける習慣を小さい頃から学校でつけることは、教育の目的でもある。それは他国や自国のプロパガンダに左右されず、正しい政府を支持し、誤った政府を転覆する、または誤った政府を作らない国民を育てることであり、それこそが最強の国防であり安全保障だからだ。