maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」二十二 数研出版教授資料 平成十八年(二〇〇六年)度版

 数研出版は、「日本現代文学選」(川副國基編著)で、昭和三十二年(一九五七年)に日本で最初に教科書に採用した会社である。今回の指導書では「羅生門」の多様な解釈について述べている。

 

「 洛中という世界

(略)仏像や仏具を打ち砕いて、それを薪として売るという行為も、ふたりの行為と非常によく似ている。(略)「今昔物語集』の元の話では、女の行為は露見し、女は罰せられるが、芥川の「羅生門」では、このような悪事が、見とがめられもせずにまかりとおっていることになる。洛中とは、そのような世界として造型されているのである。(略)これらの売り手たちは、人が近づかないタブーに踏み込み、いかがわしいものを正当なものと偽って買い手たちにおしつけることと引き替えに、自分の生計を立てているのである。三つの行為はいずれも、洛中の日常の世界にひっそりと潜む悪である。(p74)」

 

 冒頭の時代設定と、女や老婆との呼応を指摘して秀逸である。

 

「二度目に獲得する「勇気」について」として、下人は、老婆の話のどこから盗人になる「勇気」を得たのかについては、研究史の上で多くの解釈があるとし、三つの説を挙げている。

 

「第一は、下人は、老婆の話を聞いて、納得して、自分も生きるために仕方がないから盗人になったという説。これは、下人が老婆の仲間に入った、あるいは同じ考えを持つようになったという読み方である。第二は、下人は、老婆の話に現実を学んで迷いが吹っ切れ、感情のままに行動するようになったという説。また、老婆の後半の論理だけを受け入れ、その論理の陥仰(おとしあな)を突くことで盗人になったとする説。これらの説は、老婆の話や論理の一部分を取り入れたが、仲間入りはせず、同じ考えにはならなかったという読み方である。第三は、下人は、老婆の話や論理に反感を持ち、老婆の行為(隠れたところではたらく詐欺)とは対照的な、あからさまな悪事(強盗)を選んだという説。これは、老婆とはまったく別の生き方を選んだという読み方である。」

 

として、この後「一つの読み方」として解説者がいづれを支持するかを述べていく。

   

 「  老婆は詐欺を働き、自分の悪事を正当化しようとするエゴイストである。強盗になる下人もやはり悪人であり、エゴイストである。しかし、下人と老婆は、同じような人物なのか、まったく違う人物なのか。エゴイストにもいろいろな種類があり、エゴイズムといっても多義的なのではないか。例えば、日常の中にひっそりと隠れ、隠れることで人を傷つけるエゴイズムと、あからさまに自己を主張し、欲求をあらわにすることで人を傷つけるエゴイズムとの二つのエゴイズムか考えられるのではないか。単にエゴイズム=悪とするのではなく、また、善とか悪とか、極限状況とか許しとかで片づけるのではなく、より深くエゴイズムについて考えようとすること、そこにまず、芥川の独自の着服と問題提起を認める必要がある。

   生きるためには悪事を働くしかないとして、下人は、老婆たちのような偽りや詐欺ではなく、あからさまで反逆的な強盗になったと捉えるのが、より説得力のある読み方ではないだろうか。下人は、洛中の世界にひっそり隠れている老婆たちの生き方を「侮蔑」して、感情的な(感情だけの)あからさまな力を誇示していく生き方を獲得したと考え三つ目の説を採りたいと思う。その根拠としては、「冷然として」聞き、「嘲るような声」で念を押し、「かみつくように」言い、しがみつく老婆を「蹴倒し」て走り去る下人からは、老婆に対する強い反感や侮蔑感が読み取れることを挙げておきたい。(p75)」

 

と、表現を根拠にして述べている。しかし、「ひっそり隠れている老婆たちの生き方を侮蔑」したのはなぜだろう。「嘲るような声」は結果でありこの原因ではない。「侮蔑」の伏線がどこかに張られていない以上、私には唐突感が拭えない。老婆の話が終わった後、なるほどと言って他の死人の髪を抜くことも、死人の着物を剥ぐこともできた。しかしそれでは小説として面白くもなんともない。楼の下で張られた伏線、それは「低徊」だ。そして迷いをふっきらせた老婆の言葉は「大目に見てくれる」だ。だから下人は「きっと、そうか。」「恨むまいな」と念を押すのである。実際には許されていなくても、言葉のアヤの上でだけでも許されたことが下人の背中を押したのである。それを「勇気」という皮肉まみれの言葉で芥川は表す。「勇気」を芥川が皮肉に使う例は拙著「羅生門論」で指摘した。

 

「 しかし、これは一つの読み方である。重要なのは、作者芥川が、ふたりの対決を通して、エゴイズムについて読者に深く考えさせていることである。答えにではなく、むしろ問いかけにこそ、短編小説の持つ文学性を認めておくべきだろう。」

 

 こう締めくくれば何だって言える。答えを絞らない指導の講演が、県の国語研究部会でもされていた。一方、五択のセンター試験を批判する声を講演会で聞いたことがない。最後に解説者は「作者のまなざしの変化」について述べる。

「作品の末尾の一行は、最初にこの作品が発表された雑誌「帝国文学」(一九一五・一一)では、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」であった。この末尾文では、力を獲得した下人を、作者は肯定的な眼で見続けていることになる。第一短編集である「羅生門」(一九一七・五)に収録された本文でも、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでいた。」であり、大きくは変わっていない。しかし、「新興文芸叢書』第八編の「鼻」(一九一八・七)に収録する際には、作者はこの末尾文を「下人の行方は、誰も知らない。」と改めている。この手直しによって、下人を見る眼は消されて、ただ「黒洞々たる夜」が広がる結末に変わっていく。芥川は、下人から眼をそらしていくのであり、最初に作品を作ったときの熱が次第に冷めていくような心情の変化を想像することができる。

 そのことと符合するように、以後の芥川は、強いエゴイストを描くのではなく、弱いエゴイストを描いていく。「鼻」において描かれるのは、内供の「自尊心」であり、周囲の「傍観者の利己主義」であって、消極的なエゴイズムによってお互いに傷つけあう人間関係である。そして、「芋粥』では、五位というさらに弱い人間が無垢なる人間として登場し、周囲の迫害の被害者として描かれる。「羅生門」以後、芥川が見つめていくのは駆け抜けた下人ではなく、日常の中に偽りを済ませた洛中の世界であり、芥川は、「黒洞々たる夜」の方に眼を注いでいったといえるのである。」

 

 興味深い指摘だと思ったが、時間軸は正しいのだろうか。一九一六年二月に「鼻」を、九月に「芋粥」を発表し、一七年五月に「羅生門」を「大きくは変え」ず、一八年七月に変えたので、「そのことと符合するように、以後の芥川は」とあるが、「鼻」も「芋粥」も変える以前の作品である。一五年五月の「虱」で登場人物は刃傷沙汰になりそうな喧嘩をするが、これは芥川の作品としては異質で、翻訳小説「バルタザアル」から初めて「羅生門」までの全六作品を眺めても、死と皮肉な結果が共通項で、もともと強い人物は描かれていない。

 参考資料に例の書簡が挙げられているが、

 

 「羅生門」の執筆の年(一九一五(大正四)年)の初めに起こった失恋と、そのことから芥川が受けた痛手について友人に書き送った書簡の文章を挙げる。②③④の文章で、芥川がエゴイズムを問題にしていることから、失恋事件と「羅生門」のテーマとのかかわりが明らかになる。また、エゴイズムの問題といっても、それを単純に悪として憎んでいるのではないこと、愛の中に潜むエゴイズムヘの非難であること、エゴイストであることそのものを否定しているのではないことなどが読み取れ、エゴイズムの意味が多義的であったことが知られる。(p77)」

 

として四通の書簡を載せる。

「①大正四年二月二八日、井川恭宛書簡より

ある女を昔から知ってゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になってはじめて僕がその女を愛してゐる事を知った しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかった それからその女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかった その内にそれらの事が少しづつ知れて来た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知った

僕は求婚しやうと思った そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかった しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた

家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云った それから不愉快な気まづい日が何日もつヾいた其中に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は来なかった

②大正四年三月九日、井川恭宛書簡より

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない周囲は醜い 自己も醜いそしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい

しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をっゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある 僕はどうすればいヽのだかわからない

③同年三月十二日、井川恭宛書簡より

僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな気かする

しかし不幸にしてその新しい国には醜い物ばかりであった 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持ってゐる、そして人の持ってゐる美しい物を更によく知る事が出来たからである しかも又僕の持ってゐる そして人の持ってゐる醜い物を更にまたよく知る事が出来たからである 僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに強くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によって愛せらるヽ事なくとも生存苦をなぐさめたい

④同年五月二日、山本喜誉司宛書簡より

此頃は少しおちついてゐます しかし やっぱり淋しくって仕方がありません 何時この淋しさがわすれられるか 誰がこの淋しさを忘れさせてくれるか

それは僕にとって全く「鎖されたる書物」です 僕は社会に対してエゴイストです(愛国心と云ふやうなものも僕にはエゴの拡大としてのみ意味があると思はれます)そしてその主張の中に強みも弱みもあると思ってゐます その弱みと云ふのは個人の孤立(イゴイズムから来る必然の帰結としで《ママ》はないのですが)と云ふ事で強みと云ふのは個人の自由と云ふ事です 僕はこの弱みをー孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思ってゐます

すべての属性を(位爵 金力 学力等の一切)離れた霊魂そのものを愛する愛の外にないと思ってゐます

この愛の焔を通過してはじめて二つの霊魂は全き融和を得る事が出来るのではないでせうか この愛の焔に燃されてはじめて個人の隔壁は消滅する事が出来るのではないでせうか 僕が「餓渇く如く」求めてゐる心はこの愛です

  ※書簡の引用は、『芥川龍之介全集』第十七巻(一九九七・三 岩波書店)による。」

 

 書簡②は既に指摘した、吉田精一の「芥川竜之介」(昭和一七年 三省堂)の考えを色濃く反映した中央図書出版社の昭和三十八年版にも引用されたもので、引用の定番と言って差し支えない。数研はさらに書簡①で失恋の具体的経緯を、③④でエゴイズムの用例を他の書簡で示そうとしている。「エゴイズムの意味が多義的であったことが知られる。」と解説にあったが、「多義」の内容について具体的に触れていないので、私なりに具体的に述べたい。

 ②の書簡では「イゴイズム」は「独占欲」に近いと思う。③には引用文の前に「外面的な事件は何事もなく完ってしまった」とあるので、書簡①を受けてだと考えられるが、文脈がないので、②と同様に独占欲の可能性はあるが、虚栄心と性欲以外だということしかわからない。④の「エゴイスト」ははっきりと「個人主義者」と言って差し支えない。「利己主義者」ではない。夏目漱石は大正三年十一月二十五日の公演で「個人主義の必要」と「個人主義の淋しさ」とを述べた。個人主義が自由と引き換えに陥る孤立を癒すものとして、芥川は愛の必要性を述べたのだ。恩師広瀬雄への明治三十二年の手紙に「あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以来の事と御宥免下さるべく候」(「芥川龍之介全集」第十七巻p10)とある。樗牛のことについては私は全く疎いが、Wikipediaによると、明治三四年に「ニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した」とあった。

 井川恭は京都大学寄宿舎に、山本喜誉司は牛込区の下宿に住んでいて、多くの書簡をやりとりしているが、資料②③④はわかりにくい。どの書簡も全文ではない。しかし全文を読んでもわかりにくさは変わらない。その原因の一つは、書簡は返事であり、もらった書簡の内容を繰り返したり要約することはない、という書簡の性質からくるものだ。従って文脈を辿るのが難しい。人が電話をかけているのを聞いているとイラッとくるのと同じである。原因の二つ目は、どの書簡も、何かをきっかけに書かれたと思うが、具体的な出来事をわざと避けているようにしか思えない表現をとっていることだ。友人だけにわかる表現をとっている気がする。

 このようにわかりにくい書簡をもとに、「羅生門」の主題を考えて良いのか疑問である。吉田精一氏は芥川の書簡の「周囲は醜い 自分も醜い」を「養父母や彼自身のエゴイズムの醜さ」と言い換えている。自分の醜さについて吉田氏は具体的に触れていないが、醜いとするなら、幼友達に婚約が決まったと知って初めて彼女への愛に気づいて、彼女や婚約者の戸惑いを顧みず結婚を申し込もうと考えることであり、彼女への独占欲だとしても、果たして「周囲」を「養父母」に限定してよいのであろうか。「周囲」を私は、「養父母」だけではなく実父母も含めて考えている。書簡①の抜粋から省略された後に、ある家の細君が「女は僕と従兄妹同士だ」と言ったとある。またその細君は「錦絵の一枚にその女に似た顔があった」のを見て「誰かに眼が似てゐるが思出せない」と言い、「僕は笑った けれどもさびしかった」とある。女は実父の家の近くに住んでいた。つまり私は、この書簡から龍之介が自らの出生の秘密を疑っていた可能性を感じるのだ。女の父が、龍之介の本当の父かも知れない。結婚に猛反対する理由も納得できる。芥川が「周囲」という言葉を使うのもわかる。「太宰と芥川」(福田恒存、新潮社、1948)に描かれたこと(p103)が真実か私にはわからないが、書簡の後半は芥川自身の生存苦と自死の可能性について語られているのだ。失恋がきっかけの文としては、書簡②から重すぎるものを私は感じる。 

 書簡③の「僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズム」を見れば、私は書簡の半年前に書かれた「青年と死」を連想する。「青年と死」では前半に相手不明の性愛、後半に死への願望が描かれている。相手不明というのも出生に関する疑いを思わせる。しかし、「羅生門」に愛が描かれているか、ヴァニティ、自惚れが描かれているか、死への願望が描かれているか。私は否としか言えない。

 私は大正三、四年の書簡を読み直してみた。心に残ったのは「さみしい」という言葉だ。書簡①で一回、②で二回、③で二回、④で八回使われる。さらに五年二月まで使用例を見る。「生存苦の寂莫」と言い、「自己の存在を失ふ」ことで神に復讐するというのだから、とても重大なことが彼にあるはずだ。

 また書簡に、「愛」の語が頻繁に見えるが、芥川は「愛」を恋愛に限定して使っている訳ではない。「今までぼくは彼等の愛の中に生きた これからは彼等をぼくの愛の中に生かしてやる たとへその境に彼等がぼくをにくみぼくが彼等をにくむ事があらうとも」(巻二十三p260)と、友人達に対して恋愛とは違う「愛」の使用例がある。

 また、書簡④は「正直に云へば僕は反省的な理性に煩わされる事なしに云はば、最も純に愛する事が出来たのは君を愛した時だけだつたと云ふ気がしてゐます 夜はいつでもゐます ひまがあったらいらっしゃい」で終わっている。この部分だけを読むと同性愛的なものを感じるが、この「愛」は書簡④の省略された後半部分に書かれた「相互の全き理解、しかも理知を超越した不可思議な理解」のことなのだろう。女性に対する愛でないことは確かだ。

 ちなみに書簡④に「Yの事は一日一日と忘れてゆきます。」とあるが、Yは書簡①の女、吉田弥生である可能性は高い。また、書簡④の中ほどには「僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奥さんなんでせう 少しはいからな会では時々あひます」とある。また、「愛を求める資格が又大抵な人に対して僕には欠けてゐる」「ただ淋しいので僕のゆめにみてゐる人の名を時々文ちゃんにして見るだけ」「文ちゃんは嫌な方ぢゃありません」とある。ちなみに「文ちゃん」は塚本文、後の妻であり、親友山本喜誉司の実妹だ。参考資料の書簡④にはそれらのことは全て省略されている。確かに「羅生門」発表の半年前に書かれたそれら書簡の内容は、恋愛の痛手が「羅生門」を書かせたという主張には相応しくない。

 時系列に関して整合性の取れないものがある。参考資料では省略されているが、書簡③は「僕は愛の形をして《ママ》hungerを恐れた それから結婚の《ママ》云ふ事に至るまでの間(可成長い 少なくとも三年はある)の相互の精神的肉体的の変化を恐れた 最後に最卑しむべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の来る事を恐れた」から始まるが、これが何を意味するのかわからない。文法的にも違和感があるし、相手と少なくとも今は気持ちが通じ合っているが、自分は結婚までの三年間も愛し続ける自信がないというような文面に見える。誰のことを言っているのかわからない。吉田弥生なら内容が合わないし、塚本文ならもっと後の日付でないといけない。

 さらに草稿に関して、「『羅生門』草稿ノート」をめぐる問題」(明治大学大学院二〇一一年五月二十日)で早澤正人氏は、「羅生門」の「執筆時期を〈大正三年末頃〉とする研究者もいる。その代表的な人物が海老井英次」であり、さらに「「大正三年十二月」(初稿原稿)と「大正四年九月」(再稿原稿)の二度にわたって脱稿されたとする新説を提出した」と紹介している。「従来の定説を覆すほどには至っていない」としながらも、芥川の初期作品の表現描写の特徴から、「ノートが大正三年に書かれた可能性も射程に入れなくてはいけない」としている。そうならば、失恋事件は関係なくなる。

 もちろん、草稿ノートと「羅生門」では多くの点が異なっているから、草稿ノートと「羅生門」は別物だとしても、芥川が「あの頃の自分のこと」で語った、「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)」は無視できない。であるなら、「現状を懸け離れた」小説を理解するのに、当時の書簡から読み取れる苦悩を当てはめるのは、論理的に間違っているのではないか。書簡には関わらず、まず「羅生門」の内容から考えられる主題を導き出し、次に当時の書簡のテーマと重なるものを省く方が論理的なのではないのか。

 前項の桐原書店教授資料は「読解の多様性を導く」原因を探ろうとしたが、この書簡群と関連づけようとすることこそが多様性を生む原因ではなかろうか。手紙という、本人たちしか知らない、文脈がわかりづらく、「イゴイズム」「愛」「生存苦」「神」「復讐」「さみしさ」をキーワードとする文章と、それらを全く含まない、書簡から八ヶ月後に発表された「羅生門」という小説とを関連づけさせるということが本当に必要なことなのか。無関係のものを関係付けさせる無意味な作業こそが問題を混乱させ、挙げ句の果ては多様性という無責任な方向に導いている元凶といえないだろうか。掛詞を修辞法とする伝統を持つ日本人は、言葉の意味の二重性を楽しんできた。私たちに必要なのは、込められた意味の多義性を理解することであり、読者の主体性や解釈の多様性を認めることでは決してない。

 また、芥川の書いたものを無視できないのであるならば、Defendence for “Rasho-mon”」も同様のはずだ。しかし、五十年前と同様に書簡②が重要視され、十年前の一九九七年に出された岩波書店の「芥川龍之介全集」に収められたDefendence for “Rasho-mon”」は無視される。なぜそういうことが起こるのだろうか。

 

 以上、私は

1 発表の九ヶ月前の書簡から、小説の主題を探る事は正しいか

2 書簡に使われた抽象的な言葉が事件のことを指すと断定できるのか

3 書簡中の「エゴイズム」という言葉が、芥川の体験のどの部分を具体的に指すのか

4 書簡中、時系列が不自然な部分の扱いはどうするか

5 書簡以前に草稿が書かれていた可能性が指摘されているがどうするか

6 芥川の体験から小説を読み解こうとする作業は、「現状を懸け離れた」小説という芥川の言葉と矛盾しないか

7 芥川が残したDefendence for “Rasho-mon”」の「It is "moral" that l wished to handle.According to my opinion“moral"(at least"moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.」との整合性をどうするか

 

について述べた。私は書簡より、「今昔物語集」の表現との差異について考える方が「羅生門」を読み解くのに近いと考える。芥川が書き変えたのは、そこに意思があり、彼にとっての必然性があったと思うからである。次回はその点について述べたい。