maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」十七 角川書店教授資料 昭和五六年度版

 

 角川書店は昭和五一年から採録を始め、平成十四年まで、連続で採録する。角川書店は、吉田精一氏の「近代文学鑑賞講座11」(角川書店1958)を出版していて、「枚挙がない」参考文献の一部としてこれを最初に挙げている。

 しかし、主題については、

「混迷と動乱の時代、極限の状況に追い込まれた若者が見せたセンチメンタルな心の揺れと、その結果としての酷薄な生の選択。

として「エゴイズム」の語は見られない。

 「私の授業プラン」として千葉県立天羽高等学校の猿田重昭先生の案が紹介されている。「作品観」の中で

 

 この心理の変化と行動は、全く衝動的であり、周囲の条件にあおられて行動する人間の弱さが感じられる。老婆の着物を剥ぎ取る部分にしても、理由付けがなければできない、人間の良心とも読み取られ、環境によって変質する人間の心理を見事に描いたと言えるであろう。老婆の行為を見て、憤りを覚えるのも、反射的、衝動的であり、悪を憎む理念とはやや異質のものである。

 ここでは環境の変化によって、変質する人間の心理や行動が暗示され、理由づけがなければ悪へ踏み込めなかった下人の未来への可能性も、一面には読み取れよう。

 しかし、芥川の書簡や、生きた時代の状況から見て、作品の末尾は善悪の一方に運命付けられないとは思うものの、エゴの闘いの場としての人間の生きざまが感じられ、下人の未来は人間のエゴイズムの闘争の場へほうりこまれていく、無限の修羅場へつながってゆくように感じられてならない。

 

とある。外的刺激により考えを動かされるものとして人間を捉え、「作品の末尾は善悪の一方に運命付けられない」としているという考えに私も全く同感である。にも関わらず最後にその片方でしかない「エゴイズム」が出てきたのはなぜなのか。教育現場には既に「エゴイズム」は浸透していて、「環境による変質」と一般的な解釈である「エゴイズム」を結びつける手段として、猿田先生は「未来」を持ち出されたのではないだろうか。私も授業をしながら、繰り返される心理変化と文末のエゴイズムがどうも繋がらずいつも授業が納得できなかった。しかし、今は、「エゴイズム」は外的刺激による変化の一つに過ぎず揚げ足を取っただけで、下人に哲学なんてないと考えると、実に統一感の取れた素晴らしい作品に「羅生門」は見えてくる。

 角川の指導書の指摘した「センチメンタルな心の揺れとその結果としての酷薄な生の選択」は、実に素晴らしい主題提起だと思う。テーマに深く関わる語を外国語表記する方法は、先行する作品「ひょっとこ」「虱」にも見られ、「羅生門」中のsentimentalismは無視できない言葉である。また、拙著「羅生門論」で指摘した芥川の「defence for “rasho-mon”」にある

 “Rasho-mon” is a short story in which I wished to “verkörpern” a part of my Lebensanschauung-if I have some Lebensanschauung,--゛but not a piece produced merely out of “asobi-mood”. It is “mora1” that I wished to handle. According to my opinion, “mora1”(at least, “moral of philistine")is the production of occasional feeling or emotion which is also the production of occasional situation.

羅生門』は私の人生観―もし私に人生観があるとしたら―の一部を描こうとした小説である。しかし、単に「遊びムード」から制作された作品だというのではない。これこそ私が扱いたかったモラルなのだ。私の考えとは、「モラル」(少なくとも凡人のモラル)は、その時々の状況で生まれるその時々の印象や感情の産物だということなのだ。    (小林訳)

と矛盾しない。しかし、その「モラル」を手放しで認められるほど芥川自身は単純ではなかったと私は思う。そうした「凡人のモラル」の先には「黒洞洞たる夜」が待っているだけだと突き放しているのである。