maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」二十 教育出版教授資料 昭和五六年度版

 教育出版は昭和四八年に採録を始め、六三年まで続き、五年間休んだ後、平成六年から二五年まで連続で採録を続ける。

 

 四八年度版で解説者は吉田説を示しながらも、疑問を持ち、控えめに自論を述べていた。解説者は、善にも悪にも働く人間行為の契機といったもののありかたを主題と考えていると言っているように私には思えた。昭和五六年度版では

 

「●論理と心理」の項で 

「 下人の心理に変化をきたしたのは、老婆の論理からである。老婆の話をまとめれば、生きるためには悪も許容される、という論理になるが、これを挾んで下人の心は揺曳し、逆転していく。つまり、本作は、人間を取り巻く状況の推移によって、心的状況も変化せざるを得なくなっていく実相を描いたことになる。これを、人間そのものの持つエゴイズムの結果として、また人間存在の不確実性などと称していいのかどうか。或いは、生きることが決して悪と無関係ではあり得ないと処理してしまっていいのだろうか。「されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ」と言った老婆も、その論理を逆用して「では、おれが引剥をしようと恨むまいな」と対応した下人もまた人間であるのだ。」

 

と、吉田、三好説に疑問を呈している。続いて「●主題をめぐって 」の項で

 

「 こうした結構の『羅生門』の主題をめぐって、様々な作品論が展開されてきたが、下人が盗人に転身する結末について、吉田精一の「芥川は熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる、善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方があるとし、そこから下人にエゴイズムの合理性を自愛(ママ、自覚が正しい)せしめている。そうしたエゴイズムの醜さをのがれようとすれば、彼の生存は否定するよりほかはない。ここに龍之介の感じ且つ生きたモラルが見える。」(『芥川龍之介新潮文庫昭和三十三年一月)とする見解が一般的である。これをさらに展開させた三好行雄の「芥川龍之介が『羅生門』で描いてみせたのは地上的な、あるいは日常的な救済をすべて絶たれた存在悪のかたちである。人間存在そのものが、人間であるゆえに永遠に担いつづけねばならぬ痛みであり、生きてあることにまつわるさまざまな悪や苦悩の根源である。」として、結末を「論理の終焉する場所にたちあう精神を〈虚無〉と名付け」るなら、その〈虚無〉の対象化であり、「下人を呑みほした夜は、いかなる救済もうちにふくまぬ〈無明の闇〉に通じる。」(以上、『芥川龍之介論』昭和五十一年九月 筑摩書房)ととらえている。また駒尺喜美は、芥川の「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』大正八年一月)などを引いて、「徹底し得ないとか、不安定とかいう彼の胸の淋しさや、暗い眼つきはな」く、「当時の心の痛みや心情とはかけはなれたもの」で、「いささか得意でもあった、人間内部における矛盾の併存という命題によってかかれている。」(『芥川龍之介の世界』昭和四十二年四月法大出版局)としている。」

 

三者の意見を紹介したが、吉田説を四八年度版で「(略)と吉田精一氏(「芥川龍之介』(三省堂))は主題をとらえている。」としていたのを、「吉田精一の(略)とする見解が一般的である。」となり、単なる紹介から多数派であることを認める立場に変わっている。また、三好論を淡々と紹介している。「「●論理と心理」では疑問を呈していたはずなのに。「●結び 」の項で

 

「 以上は、エゴイズムの合理性、人間の存在悪、或いは人間内部の矛盾の併存などの見解としてまとめられるが、いずれにせよ、こうした主題を包含するための空間、すなわち『羅生門』における平安末期=「昔」という時代や、「異常な事件」が設定され、そこに下人や老婆が投げ込まれたということになる。つまり、前述のような極限状況に置かれた人間が示す心理や行為の不可解さや、また状況によってはいかようにも変化し得る人間の脆弱性を剔抉して見せたと言えるのである。とはいえ、作者は人間の持つそうした点を明快に否定したということではなく、その実相を冷静に分析、照射したということである。」

 

と述べている。解説者の言う「状況によってはいかようにも変化し得る人間の脆弱性」からは、駒尺喜美の論を支持しているように思える。駒尺論が吉田論を受け入れられるとは思えない。にもかかわらず、なぜ吉田説を否定せず曖昧なまま放置するのか。教授資料は論文ではなく、あくまでも資料だと言うなら、「一般的」とか説に軽重をつけるのはおかしい。説を羅列し、使用者に判断させれば良い。しかし、私はそれで終わりとは思わない。解説者自身の意見も書くべきだ。それはある説を支持するものでも、新しい見解でも構わない。執筆した以上、作品に対する思いは湧くはずだ。解説者の見解として遠慮なく述べる、それが生きた文章というものだ。四八年度版にはそれに近いものがあった。しかし五六年度版では、最初反駁の姿勢を示しながらも、「いずれにせよ」で収斂してしまい、勢いのないものになってしまったように感じる。それはなぜなのか、私は気になる。

 

 表現の特色として[繰り返し][引用方法][比喩法の多用]を挙げている。

「「旧記によると」「作者はさっき……と書いた。」「旧記の記者の語を借りれば」などのように、引用の巧みさがある。これにはもちろん時代背景の雰囲気作りという意図もあろうが、むしろ作者は現代に立脚し、その視座から作品に解釈を加えていることの表明と受け止めるべきである。「この平安朝の下人の Sentimentalismeに影響した。」もその例であろう。ここでわざと「平安朝の」と断ったのは、次のフランス語との組み合わせが醸成する効果を狙ったのに相違ない。読者には、平安、つまりは王朝の持つサロン的雰囲気や、フランス語の持つモダニズムを想起させるが、『羅生門』の世界は、それを逆転する陰鬱で重いものなのである。」

というように、作者の現在という立ち位置を読者に意識させる手法だとする指摘は秀逸だ。昔の異様な世界を舞台にしているが、作者は離れた現在から観察しているのだ。

このような指摘は、今までの教授資料にはなかったと思う。