maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」十九 大修館書店 教授資料 昭和五六年(1982年)版

 大修館書店は昭和五七年から連続三十年間以上採録している。

 

 「主題」は

 

ある日の暮れ万に荒れ果てた羅生門で雨やみを待つ下人を主人公とし、死体から髪の毛を抜く老婆とのかかおりのなかで、その心理の推移を描きつつ、ひとつの美的な世界を創造しようとする。羅生門という題名に象徴される、自然と人事をつつみこんだ世界そのものを主題と考えたい。人間のエゴイズムの追求というように主題を要約する考え方も多い。(P58)

 

としている。「自然と人事をつつみこんだ世界そのもの」が主題だというならば、世にあるほとんどの作品の主題は同じになってしまうので、納得できない。これは、以前「高等学校国語教育情報事典」(1992年大修館)の項で指摘した、平岡敏夫氏の説によるのだろう。また後述するが、「「下人の心理の推移」が主題であるとしても」(p78)という表現もされている。これは吉田精一氏の表現であるが、「主題」と「話題」の違いは何なのか、「主題」の定義をする必要を感じる。「世界」とか「推移」は話題であり、「主題」とは言えないと私は思う。私は主題を、〇〇は△△である、という主語述語を伴った概念として定義している。例えば、正義は勝つ、とか、人は利己的である、とかである。話題にするときには勧善懲悪とかエゴイズムとか単語に略すが、その単語は暗黙の了承で主述を伴った概念で理解されているはずだ。言い古されたものでも構わないと思うが、誰も言わないものに出会うとしびれる。もちろん、本文には直接書かず、読み手があっと気づき、パラダイムシフトが起こる、最高である。「羅生門」の、人は自然や他人という外部に感じ方の影響を受けるという主題はパラダイムシフトになりえただろう。しかし、利己主義、個人主義、博愛主義、その肯定と否定が中心だった明治大正時代の文学界において、理解されることがなかったのだろう。「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」という最後の台詞を以てエゴイズムと決めつけられてしまったのだ。

 

 「鑑賞」の項において、

(略)「羅生門」という作品の魅力は、今日の現実とは非常にかけはなれた、平安朝の別世界、荒れ果てた羅生門を中心とする異次元の世界に、読む者を導くところに、大きくかかっているのではないだろうか。そのことはむろん、人物・事件の要素とも密接にかかわっている。

(略)芥川の小説は、近代人(現代人)のエゴイズムをあばいているといった通念がある。「この下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。」(古田精一 『芥川龍之介』)という見解は今日なお定説と言ってよい。主題は「下人の心裡の推移」であり、それを通して人間の持つエゴイズムをあばいたというのである。近代文学は人間の自我を追求するものであり、その自我の内部のエゴイズムをあばいて行く、という通念は、たとえば漱石の「こころ」の鑑賞にも及んでいる。それ自体があやまりであるはずはないが、人間いかに生くべきかを、直接小説作品に問おうとして、人間のエゴイズムを理解し、批判するといった地点で、学習が行われるとしたら、問題であろう。小説作品は何よりも作者が現実とは異なる別次元の世界を構築した、魅力ある言語の世界なのである。

(略)人間のエゴイズムを読みとるという傾向に反対の意見もつとに出されていた。宇野浩二は、筋だけ抜き出せば、実にはっきりしたテーマ小説であるとして、「それで、当時の或る批評家は、この小説を『生きんがためのエゴイズムの無慈悲』を刳り出したものである、と云ひ、『生きんがための悲哀』を描いたものであるなどと評してゐる。しかし、これは、唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云ふことであって、私などは、この小説をよんで、さういう考へは殆んど全く浮かばなかった。」(『芥川龍之介』)と言っている。こういう読者(作家であり芥川の友人)もいるのであるから、はじめから、エゴイズム云々として、生徒に押しつけるのではなく、生徒がどのように受けとるかをまず出発点とすべきなのである。福田恒存氏も「『羅生門』や『偸盗』に人間のエゴイズムを読みとってもはじまりません。 (中略)多くの芥川龍之介解説は作品からこの種の主題の抽出をおこなって能事をはれりとする。さういふ感心のしかたをするからこそ、また逆に龍之介の文学を浅薄な理智主義あるひは懐疑主義として軽蔑するひとたちも出てくるのです。」(「芥川龍之介」)と述べている。

(略)羅生門」において、たしかに下人の心理はつぎつぎと変わり、推移している。これは老婆との接触によるところが大きいが、雨の夜の羅生門という状況、その雰囲気も大いに作用しているようである。どういう心理なのか、なぜ、変わって行くのかを、こまかく読み、味わうことが必要で、それは「語句・語法の解説」の項でふれたところである。

 

というように、エゴイズムをあばいているものであるという吉田精一の見解は今日なお定説と言ってよいとしながらも、宇野浩二福田恒存らの反対の意見も挙げている。エゴイズム論には中立的立場をとっている。また次々に変わる下人の心理の内容、推移、理由を味わうことが必要だとする。そして

(略)「下人の心理の推移」が主題であるとしても、どうして、こんなことになるのかが読みとれなければ、作品は不可解のものとなってしまうにちがいない。

(略)「許すべからざる悪」という下人の判断は、作者自身もことわっているように、合理的な判断ではない。合理的には判断できないのに、心情のほうでは、はっきり悪と判断している。

(略)雨の夜の羅生門を「この雨の夜の、この羅生門の上で」と、さきにも力をこめて作者は確認していたが、それはこの作品にとって不可欠のものなのであり、髪の毛を抜くということは、「この雨の夜の、この羅生門の上で」とは、相容れない(許すべからざる)行為なのである。なぜ、そうなのかを作者は読者に「合理的」に判断させるようにはしていない。雨の夜の羅生門という状況からする直感的な判断としてもよいが、盗人になる気でいたことを忘れていたとあるように下人は倫理的、合理的でなく、動きやすい心情の持ち主なのである。

 

としている。髪の毛を抜くということが、「この雨の夜の、この羅生門の上で」とは、相容れない行為だというのは読み誤りで、雨の夜の羅生門の上だから悪だと芥川は書いているのである。羅生門を今の生徒にわかるように言い換えると墓地となろうか。たとえ現代風のモダンなマンション墓地であっても、「雨」「夜」が加わると、読者は「悪」の行われそうな設定であることは否めず、またその感じ方が合理的でないことも同時に理解できる。難しいのは、「死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。」である。「それだけ」に死人の髪の毛を抜く行為も入っているのだ。「それだけ」という表現を倫理的に許容できない読者は多いだろう。老婆も「何ぼう悪い事かも知れぬ」と認めている。しかし、「人肉料理」(芥川龍之介全集22)に未定稿としてに

 

(略)その生命が存さない限り、それは屍体であるにしろ、人間と呼ぶ事は不可能です。 既に人間でないとすれば、俎上の牛肉や豚肉と選ぶ所がないのですから、当然道徳は人肉料理に、容喙する資格がありますまい、いや、現に今日でも、道徳は既にこの点では、寛大な態度を示してゐます。何故と云へば火葬の如き、又は屍体解剖の如き、いづれも実は人肉料理の或過程ではありませんか。猛火に焼かれる人肉にも、メスに切り裂かれる人肉にも、何等の義憤を感じない以上、人肉のスウプや人肉のハムに、道徳的嫌悪を感ずるのは、哂ふべき一種の感傷主義です。

 

とある。芥川が心からそう思っているのか、論理として書いているのかは不明だが、ここには「それだけ」に通じるものがある。我々の常識、倫理への懐疑である。

 指導書では引剥ぎをする場面について、

 

(略)老婆は、蛇を魚といつわって売っていた女もそうしなければ飢え死にする故にその行為は悪ではなく、その女の髪の毛を抜く自分も、そうしなければ飢え死にする故に悪ではない、と語る。「冷然として」聞いている下人が、老婆の話(その論理)に共感しているはずはない。「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」と下人はかみつくように言うが、この論理は老婆の論理を逆手にとった、引剥の口実にすぎないだろう。

(略)その憎悪が老婆の答えの平凡さに対する失望とともに浮上してきていたことを思うと、下人の心理はいまひとつはっきりしないところもある。背景の作用を受けることが多い人物であるかも知れない。

(略)   老婆の論理をそのまま下人が自己の論理として着物を剥ぐというところに、芥川らしい機智を人は読みとるだろうが、それはおもしろいことであるにせよ、「羅生門」という作品の魅力をそこに見てしまうわけにも行かないのである。「蛇を切売りした女と、女の髪の毛を抜く老婆と、その老婆の着衣を剥ぐ下人と、かれらは傷ついた犬が傷口を嘗めあうように、生きるためにしかたのない悪のなかでお互いの悪を許しあった。悪が悪の名において悪を許すー人間が人間の名において、といいかえてもよいーそうすることを許容する世界が現前したのである。倫理の終焉する場所である。」(『芥川能之介論』)と三好行雄氏は言う。おそらく、このくだりの読みの極限がここにある。老婆の論理を、引剥の口実として読みとるのとは、非常な相違があるというべきだろう。

 

と三好説を引用し、機智ではなく許容だとしている。老婆は本当に許容したのだろうか。老婆は着物を剥ぎ取られた後、蹴倒されるまで下人の足にしがみつき、うめくような声を立てて這っていき、下人の下りて行った門の下を覗きこむ。目に映るのは逆さまに映った黒洞々たる夜ばかりなのである。どこに傷口の嘗めあいが、許容が読み取れるのか私にはわからない。あるとすれば情状酌量相殺論理である。ちなみに私が拙著「羅生門論」で指摘した、「羅生門」の発表の前年、山本内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件の、ベルリン公判廷判決は、贈収賄が恐喝未遂事件を誘発したとして情状酌量を認め、被告を減刑したものであった。

 指導書の「下人は倫理的、合理的でなく、動きやすい心情の持ち主なのである。」「下人の心理はいまひとつはっきりしないところもある。背景の作用を受けることが多い人物であるかも知れない。」という指摘は同感である。芥川は、下人が特殊な人物なのではなく、多少の誇張はあるが、むしろ人間とはそういう存在なのだと考えていたと私は思う。吉田精一氏も「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし」としながらも続けて「そこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめている。」と突然飛躍している。二者択一に陥ってしまったのだ。しかも「羅生門」を正確に読むと正義感とエゴイズムは単に移ろっただけであり、両者の「葛藤」は描かれていない。「とうに忘れていたのである。」「考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」と書いてあるのだ。

 指導書の執筆者や吉田氏も、自分の解釈の枠に収まらない何者かの存在を感じ違和感を持っている。その、まだ言葉にならない違和感を突き詰めることが我々には大切なのではなかろうか。