maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」九 昭和45年筑摩書房

現代国語Ⅰ 二訂版 教授資料」(筑摩書房) 昭和四五(1970)年~四七年(1972)

 

 筑摩書房は昭和四二年の改訂版から五九年まで十八年間に渡り「羅生門」を採用している。二訂版の「羅生門」の指導書は平岡敏夫氏によるものである。おそらく改訂版から使われ、筑摩書房の「羅生門」の最初のものと思われる。氏は、ウィキペディアによると1956年に東京教育大学大学院入学、吉田精一に師事、1982年に筑波大学文学博士号を取得している。エゴイズムについて吉田精一氏の論を紹介しているが、平岡氏は主題をエゴイズムとする考えに疑問を呈している。宇野浩二福田恒存三好行雄駒尺喜美の説をひき、最後に平岡氏の意見を述べている。また、「羅生門」の表現に関しても両手をあげて絶賛するのではなく、批評を加えている。以下抜粋する。

 

(面皰について)描写をいきいきしたリアルなものにしている」(『近代文学註釈体系芥川龍之介』)にせよ、昨日や今日ではなく、四、五日前に暇を出され、飢え死にをするか盗人になるかというぎりぎりの選択をせまられている下人であってみれぱ、このような精力的な感じのするイメージでは困るのではないか、という疑問も生じよう。宇野浩二ではないが、それこそ「上手の手から水が漏る」ということにもなる。さきの「きりぎりす」にしても、技巧を凝らしてのことであることはむろんだが、そのために一種のそらぞらしさが感じられてくるとしたらマイナスということになろう。(p82)

 

しかし、老婆が髪の毛を抜きはじめるにしたがって、下人の心には老婆に対する憎悪・反感が生じてきた。作者は、この「老婆に対する憎悪」を「あらゆる悪に対する反感」というふうに一般化してしまい、「なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。」(四一13)とする。さすがに「やや強引である」(前掲『近代文学註釈体系芥川龍之介』)とされるが、いかにもこれは極端である。今まで述べられてきた極限状況における下人にあっては、老婆が死人の髪の毛を抜くということに対して、これほどの「悪を憎む心」を持ち得るか、正義感・人間主義を抱き得るかは大いに疑問だろう。ここには明らかに意識的になされた誇張があるように思う。下人の場合、気分的、情緒的である上に、一貫した信念に基づいているのでもないから、極端から極端にうつり変わることになりやすい。「誇張」はそのためではないか。「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった。」(同・17)と言う。「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それらを善悪のいずれにかたづけてよいか知らなかった。」(同16)のであれば、「許すべからざる悪」だと断定するのは合理的判断ではなく、気分的、情緒的なものであり、「この雨の夜に、この羅生門の上で、」という条件が付加されていた理由もわかるのである。「下人の sentimentalismに影響した」(三八・2)と言ってもよい。(p84)

 

そしてその失望と同時に、またさきの憎悪が侮蔑とともに生じてくるのだが、失望がなければそうならないはずで、下人の「悪を憎む心」が気分的、情緒的なものに基づくことはここでも明らかである。(p85)

 

たしかに老婆の論理をさか手にとったわけだが、それは下人の内部においては何ら論理性を有してはいない。老婆の平凡な答えに失望して憎悪と侮蔑を生じるということがなければ、この老婆の論理をさか手にとるということはしなかったかも知れないのである。下人は、老婆の論理をただちに自己の論理としなければならぬ理由はなかった。ただ、相手の論理を逆用することで引剥の口実としたのみである。(p85)

 

作品の主題 

 ここでこの小説の主題をめぐって二、三の意見をあげておきたい。「この下人の心理の推移を主題とし、あはせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。」というのが昭和十七年の『芥川龍之介』(三省堂)以来変わらぬ吉田精一氏の把握であり、スタンダードなものとされている。主題は「下人の心理の推移」であり、それを通して人間の持つエゴイズムをあばいたというのである。宇野浩二は、筋だけ抜き出せば実にはっきりしたテーマ小説であるとし、「それで、当時の或る批評家は、この小説を『生きんがためのエゴイズムの無慈悲』を刳り出したものである、と云ひ、『生きんがための悲哀』を描いたものである、などと評してゐる。しかし、これは、唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云ふことであって、私などは、この小説をよんで、さういふ考へは殆んど全く浮かばなかった。」と言う。芥川の小説からテーマを概念的に抽き出す傾向については福田恒存氏も次のように警告している。

 「初期の作品を見てもすぐわかることは、人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる作者の眼であります。ぼくが読者諸君にお願ひするのは、さういふ龍之介の心を味っていただきたいといふ一事につきます。『羅生門』や『偸盗』に人間のエゴイズムを読みとつてみてもはじまりません。(中略)多くの芥川龍之介解説は作品からこの種の主題の抽出をおこなって能事をはれりとする。さういふ感心のしかたをするからこそ、また逆に龍之介の文学を、浅薄な理知主義あるひは懐疑主義として軽蔑するひとたちも出てくるのです」(「芥川龍之介」)。(p86)

 

さきの吉田説を発展させたものと見られる三好行雄氏の見解では、この点がすっきりしていて、「彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪のなかでおたがいの悪をゆるしあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する。」(『現代日本文学大事典』)とあり、エゴイズム=悪、「人間に対する絶望感」としぼられて明快である。しかし、下人の「善」のほうはどうなるのか。吉田氏が「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間」というのは善をも意識しているからだが、それなら「エゴイズムの合理性の自覚」という点、つまり「悪」のほうにのみしぼってしまうことはできまい。「人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる作者の眼」(福田)、「『善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿』を見ているのではなく、善と悪とを同時に併存させているところの矛盾体である人間」(駒尺喜美芥川龍之介論」)という見方とはどう違うか。(p87)

 

芥川は、「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け娘れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。」(別稿『あの頃の自分の事』)と言っており、これを引きつつ駒尺氏は、「徹底し得ないとか、不安定とかいう彼の胸の淋しさや、暗い眼つきはない」「当時の心の痛みや心情とはかけはなれたもの」「いささか得意でもあった、人間内部における矛盾の併存という命題によってかかれている」と主張する。エゴイズムの合理性を「愉快」になど書けるはずはなかったというわけである。(P87)

 

下人の行為に大正初年のアナーキズムの論理を見出し、経済的困窮を理由にして、暴力的に、非合法的に、他人からその所有物を強奪しようとする、その論理は、論理的に破滅せざるを得ない、という主題をひき出した岩上順一の見解(『歴史文学論』)もあるが、もはやそれにはふれまい。(P87)

 

昔や異常な事件はあるテーマ表現のための手段ばかりでなく、この「異常なる物」自体への興味、「昔其ものの美しさ」自体への傾倒としても意味を持っているのである。作品の主題を、悪にしぼりエゴイズムをひき出すか、あるいは人間における善悪矛盾の併存を見出すか、いずれにしてもこういう主題をうち出すために「異常な事件」そして「昔」が必要であるとせねばならぬほどに、芥川にとっては「昔」「異常な事件」が魅力的なものだったのである。諸家が抽出する主題なるものは、作者の概念的思考、平易に言えば理屈であって、それは作者の全存在をかけた深刻なものと見ることはできず、作者はむしろ失恋の傷手をいやすべく、「なる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説」の世界、言い換えれば、救いとして求めた情緒・雰囲気の世界の形象に自己をうちこんでいるというべきである。読者は、飢え死にをするか盗人になるかという、真にぎりぎりの極限に置かれた人間を、下人に見出す、あるいは自己自身も立たせられる、というふうにはいかない。これは、極限に下人を置くとしながらも、作者自身にその真の自覚はないからで、だから、下人は、読者をして他人事と思わせぬほどの必死さを持たず、老婆に対する反感が気分・情緒に支配され、「なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。」などと「やや強引である」どころか、四、五日食うや食わずにいたぎりぎりの人間としてのリアリティーを持たぬ心理に終始し、にきびなどをつぶしたりしているのである。作者がやや得意になってうち出した下人の心理の推移―老婆の論理を遂に自己の論理とするなどの心理は、枠組みであって、これが作者が全存在をかけて言いたかったこと、あるいは読者をして感動せしめることではあるまい。この作品の魅力は、この平凡な、どこか憎めない、しかも雨の夜の羅生門という舞台がその“sentimentalism " に影響するような男を視点に、髪を抜く妖しい老婆や死体を配しての、羅生門がかもし出す、王朝的、というよりかなりエキゾチックな雰囲気の世界それ自体にあると言えるのではないか。ここではむしろ羅生門が主役であろう。題名が「羅生門」となっているのもゆえなきことではない。(p90)

 

付記 以上試みた作品鑑賞は、その一例であって、生徒の主体的鑑賞を、具体的な文脈・場面をおさえることで成立せしめるための一参考にすぎないことは言うまでもない。(平岡敏夫

 

 平岡氏は、下人を善と悪とを同時に併存させているものとして捉える読み方を支持している。エゴイズムという悪のほうにのみしぼってしまうことはできまいと言うのだ。私もその通りだと思う。このことは、私が拙著「羅生門論」で指摘した、「自分は善と悪とが相反的にならず相関的になってゐるやうな気がす 性癖と教育との為なるべし(略)ボオドレエルの散文詩を読んで最もなつかしきは、悪の讃美にあらず 彼の善に対する憧憬なり 遠慮なく云へば善悪一如のものを自分は見ているような気がする也」と、書簡で芥川が善悪の相関を「性癖」と「教育」の為と書き、内在するものとして認めているのを、吉田は「負はされてゐる罪を通じてしか、神を認識しえない近代人の心情の懺悔であつた。醜を愛し罪を愛する心は、神への切ない愛慕であつた。しかも、常に悪との対話を試みることによつて、超自然の光明を欣求したのである。龍之介が呼んで善悪一如のものといつたのは、この間の消息を看破したものであつたらう」と、芥川が悪を感じることでしか善が認識できないと言っていると解釈したのと似ている。

 平岡氏は、制作時期から、芥川の「なる可く愉快な小説」の一つではないかと考え、それもエゴイズムを否定する論拠としている。平岡氏は、下人の行動が「一貫した信念に基づいているのでもないから、極端から極端にうつり変わることになりやすい。「誇張」はそのためではないか。」としているが、私は「誇張」は「愉快な小説」の技巧ではないかと考えている。

 もう一つ、「異常なる物自体への興味」を平岡氏はあげているが、主題とするかに関しては言葉を濁した感がある。おそらく概念として、「人間における善悪矛盾の併存」は新しさがあり、哲学的であるが、「異常なる物自体への興味」は、やや軽薄な響きがあり、主題としての物足りなさを説き伏せるまでに至らなかったのだろう。ただ、「異常なる物自体への興味」ならば、老婆の屍人の髪を抜く理由は異常であってほしい。髪の毛を鬘にするという当たり前の利用法に失望を感じたのは、芥川ではなかったかと私は思う。楽しんでいた「今昔物語」の異常な話への期待を、「羅城門ノ上ノ層ニ登リテ死人ヲ見タル盗人ノ語」で、見事裏切られたことこそが、創作のきっかけになったのだ。しかも、王道である死人の髪の異常な利用法に変えるのではなく、鬘のまま読者をあっと言わせる、その部分に芥川は力を注いだのではなかろうか。それが「主題」と言えるものかはともかく、小説の大切な要素であることは間違いない。

 昭和29年の東宝ゴジラ」の主題は核開発における科学者の責任の取り方だと私は理解している。まさにロシアの暴挙を目の前にした今、そのテーマは普遍的なものとして、私たちに迫っている。しかし、それで映画「ゴジラ」を語ったことになるのか。当時の日本において画期的だった特撮技術を抜いて「ゴジラ」は語れない。平岡氏が言わんとするのも、そういうことではないのか。主題至上主義と言おうか、主題を明らかにすることが小説を読むことだとする教育現場へ物足りなさではなかったのか。

 異常な世界を描くのに「未来はまれであろう」とした芥川をはるかに凌ぎ、CGを駆使した映像は、私たちに未来を見せてくれる。が、その映像に必要なのは細部なのだ。ティラノザウルスの瞳に人の姿が映ったとき、私たちは息を呑む。そうしたプログラムを組むのは「愉快」なことではなかろうか。芥川は想像を逞しくして異常な世界のリアルさを示そうとした。特殊な中に普遍を見出す、それこそが、評論ではなく、小説のできることではないのか。そうした視点で「羅生門」を振り返ってみた時、私はその映像美に感嘆せざるを得ない。

 「羅生門」が高校教材として定番化する前に、平岡氏が多角的に考え、正しい読みを提唱していたことに、私は大いに敬意を表する。吉田精一氏は「技巧とか構成とかいうことは、作者の精神や情熱や主題と離れてあり得ない。便宜上はなして考える場合にも、常にこの両面をにらみ、連絡させて考えなければならない。それが今日の文学批評や鑑賞の態度である。」と「レポートの書き方」で述べた。まさに、平岡氏は表現から主題を辿っているのである。