maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」十五 尚学図書 昭和五一年(1976年)〜

尚学図書 昭和五一年(1976年)〜

 

 尚学図書は昭和五一年から採録を始め、平成五年まで、その後四年途絶えて、平成十年から五年間採録する。

 主題については、

「追いつめられた極限状況のもとで、人間が露呈するエゴイズムの心理を描こうとした作品である。魚と称して蛇を切り売りする女、その女の死骸から髪の毛を抜く老婆。その老婆の着衣をはぎとる下人。彼らは生きるためにはしかたのない悪として、お互いの悪を許し合った。人間の名において人間のモラルを否定した、救済のない世界。このような状況においての生への執着は、既に罪ではなく、人間存在のまぬがれがたい事実であるかもしれない。そういう極限の人間心理をこの作品は鋭く描き出している。最後の「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、だれも知らない。」という有名な結びが、このような無明の闇を象徴的に表現している。」

としている。これは三好行雄説だと思われる。「悪を許し合った」や「無明」は彼の表現だ。エゴイズム論である。ところで「許し合った」はどこから来るのだろう。老婆の言う通り蛇売り女が老婆を許していると取るのが正しい解釈なのか、老婆は下人に着物を剥がれるときに抵抗しなかったと読むのが正しい読みなのか、私にはとてもそう思えない。「許し合った」は互いが許したという意味であり、相手の同意もなく、一方的に自分が許されるという連鎖を、「許し合う」とは私は言わない。一方、指導書は鑑賞にかなりの字数を費やし、項目立てて多くの研究者の意見を載せていて、とても参考になる。

 「芸術上の開眼期」の項目では、「羅生門」成立までの習作にふれ、「習作をふまえて、作家「芥川龍之介」が確立された作品といってよい。」とし、「別稿・あの頃の自分の事」を紹介し、

「「愉快な小説」であるかどうかには議論のあるところだが、現状とかけ離れて、昔話に材を取った物語という点を、そのように表現したものであろう。それよりも駒尺喜美氏もいうとおり「羅生門」を書いたころの芥川が一つの高揚期、いわば芸術上の開眼期にあったことのほうを、われわれは重視すべきであろう。「……今までのぼくの傾向とは反対なものが興味をひき出した。ぼくはこのごろラッフでも力のあるものがおもしろくなった。……とにかくぼくは少し風むきが変った。変りたてだから、まだ余裕がない。ぼくはぼくの見解以外に立つ芸術は、ことごとく邪道のような気がする。そんなものをこしらえるやつは、大ばかのような気がする。だからたいがいの芸術家は小手さきの器用なバフーンのような気がする。」(大正三・一一・三〇、恒藤恭宛書翰)ここにははっきり、これから目ざそうとする芸術への自信が読みとれる。」

と指摘している。これは今までの指導書になかった記述である。

 「歴史小説」の項目では、「今昔物語」「方丈記」の指摘をしながら

「歴史的事象に近代的な解釈を加えたものである。これは「羅生門」に限らず、初期に多い芥川の歴史ものに共通の特色である。」

とする。「澄江堂雑記」から、有名な「今ぼくがあるテーマを」から「不自然の障碍を避けるために舞台を昔に求めたのである。」までの、芥川が昔に舞台を求める理由を抜粋した後、

「もっとも若い芥川がミステリアスな世界を好んだことは事実で、それは「MYSTERIOUSな話があったら教えてくれたまえ。」(明治四五・七・一五、恒藤恭宛)という書翰のことばにも現れている。「今昔物語」を熱心に読んだのには、怪異談に対する興味がはたらいていたこともあったにちがいない。しかし、「羅生門」のモチーフを単に怪奇好みとしてだけ理解するのはもちろん誤りで、前記「今までのぼくの傾向とは反対なものが興味をひき出した。ぼくはこのごろラッフでも力のあるものがおもしろくなった。」という大正三年の時点における芥川のことばを重視すべきことは、いうまでもない。」

としている。

 「新理知派・新技巧派」の項目では、

「もっとも芥川自身は「しばしば自分の頂戴する新理知派といい、新技巧派という名称のごときは、いずれも自分にとってはむしろ迷惑な貼り札たるにすぎない。それらの名称によって概括されるほど、自分の作品の特色が鮮明で単純だとは、とうてい自信する勇気がないからである。」(短編集『羅生門』あとがき)といってこの呼称を忌避しているが。」

と付け加えている。これは芥川の「勇気」の使い方に、皮肉の意味が込められているときがあることを、拙著「羅生門論」で指摘した時に使った文例でもある。

 「知性の文学」の項目では、

「「羅生門」に示された芥川の短編小説の特徴は、機知に富む発想、様式上の多彩な試み、趣向をこらした構成、均整のとれた文体などという評語で要約される性質のものである。もともと意識的なはからいをまったく欠いた文学作品などというものは存在するはずがなく、特に人生の断面を凝縮した形で描く短編小説の湯合、作者の態度に高度の知的操作を必要とすることは当然のはずである。その意味で、芥川の作品に一貫してつきまとう評価ー芥川の文学を一種の「知恵のあそび」とする評価は、酷なように思う。私小説主流の当時の文壇では、芥川の「虚構」はやはり異端であった。」

と、自然主義文学との対比において述べている。大岡昇平

「芥川はこのように、その作品の価値だけではなく、その生涯の劇的な意味によって、注目され読まれているのである。・・・・芥川の作品は『知性』と『死』という二つの極から光をあてることによって、鮮やかな像を結ぶように思われる。」(中央公論社『目本の文学』29解説)

という言葉を紹介している。

 「表現の特徴」の項目では、浮橋康彦氏のまとめに従って『国語教材研究講座』(有精堂)から

⑴同一・類似・発展のくり返し。

⑵装飾的な寸景描写。

⑶「もちろん」型。

⑷ある種の謎解き型。

を特徴として、各々例を挙げて説明している。

 「主題をめぐって」の項目では、

「「羅生門」の主題については、だいたい諸家の意見は一致している。芥川がこの作品で描こうとしたものが、追いつめられた、ぎりぎりの状況のなかで人間が露呈するエゴイズムの心理であることは、まちがいあるまい。」

とし、以下に諸家の説が続く。少し長いがそのまま引用する。

「「下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。」(吉田精一氏)

「平安朝末期の庶民生活を借りて、人間のエゴイズムを剔出するのをテーマとしている。これはほぼ漱石の態度であるから、かれの文学がまず漱石によって認められたのは、偶然ではない。このテーマは、飢饉に際して、魚と称して蛇を売る女、その女の死体から髪の毛を抜く老婆、その老婆から衣服を剥ぎ取る失業下人という三段階構成によってまとめられている。・・・二十四歳の青年とは思えない安定性を持っているのである。」(大岡昇平氏) 

「同じ人間の心の中に、善と悪の両方面に動く心理を作者は描出している。人間とは善人とか悪人とか画然と別れるものではない、同一人の中に両方面への衝動を併せ持つものである、との人間観をかなり意識的に作者は示していると思う。下人は『合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった』にもかかわらず、正義観に燃え、また老婆の弁解をきいているうちに、悪の勇気が生まれるのである。『おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ』というのは、下人の捨てゼリフであって、生きるためのエゴイズムを論理的に肯定しているわけではない。作者は、人間とはある条件、あるきっかけで正義の人となるが、またある条件、あるきっかけで悪へも簡単に動くものであるとの人間認識を示しているように思う。少くとも作者の視点は、人間のエゴイズムの側にのみでなく、善悪の両面を見つめていると思う。」(駒尺喜美氏)

「小説の主題は暗い。蛇を切り売りした女と、その女の髪を抜く老婆と、その老婆の着衣をはぐ下人と、かれらは生きるためにはしかたのない悪のなかで、お互いの悪を許し合った。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する。なぜなら、精神の裸形とでも呼ばねばならぬ生の我執はすでに罪ではなく、人間存在のまぬがれがたい事実に外ならぬからである。芥川がこの小説で書こうとしたのは、追いつめられた限界状況に露呈する人間悪であり、いわば存在そのものの負わねばならぬ苦痛であった。」(明治書院現代日本文学大事典」)

平岡敏夫氏のように、芥川の情緒の世界の質を重視する立場から、羅生門という舞台に包括される耽美的、情緒的な世界そのものがこの作品の主題であるとする説もある。」

と、五人の説を紹介している。四番目の「現代日本文学大辞典」の説はおそらく三好行雄氏のものと思われるが、氏名は書かれていない。駒尺氏の説は明らかにエゴイズム論ではないが、そのような説明はなく、平岡氏の説の取り扱い方と大きく違い、「だいたい諸家の意見は一致している。」に吸収された扱いになっている。

 「無明の世界」の項目で、

「「羅生門」の世界は、けっして明るいものではない。特に「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、だれも知らない。」という結末には、絶望的な人間認識の深淵をのぞき込ませるようなおもむきがある。「あそこで描かれているのは、悪が悪の名において許し合う世界、それ以外に人間のタブーを突き抜けて生きていく道がないという認識は、それは確かにエゴイズムかもしれないけれども、エゴイズムをそういうものとしてとらえてしまえば、救済はないでしょう。絶対悪ですから。そしてそのときに、それを守ってくれるものもないわけですよ。法もなければ神もないでしょう。ぼくはそれを″無明″と呼ぶのですけれど、あの闇は無明の闇だろうと思うのです。その無明の闇に下人を駆け抜けさせたところに、ぼくはむしろ、龍之介の人間認識における虚無的なものを見るわけです。」(三好行雄、『国文学』昭和五〇年二月号、シンポジウム「芥川龍之介の志向したもの」)

と、三好行雄氏の言葉を載せている。

 「四 鑑賞」の後は「五 作者」として、生い立ちから死まで、詳しく紹介されている。「私生児説もあるが、信憑性に乏しい。」と記されている。このことは今までの指導書で触れられなかったと思う。

 

 右のシンポジウムは、この指導書が検定を受けた年であり、できるだけ最新の説を取り入れようとする姿勢が見られる。また、1965年刊の「現代日本文学大事典」(明治書院)を参考にしていることが見受けられるが、執筆者一覧に、平岡敏夫三好行雄吉田精一の名は見えるが、駒尺喜美の名はない。したがって、主題に関しては三好行雄説を色濃く反映していると言える。