maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」十 旺文社昭和四八年(1973)

「高等学校現代国語1」旺文社昭和四八年(1973)~五〇年

 旺文社は昭和四八年から平成五年(1993)まで二十年間連続して採用する。最初の指導書を見てみよう。

 「投網」と「羅生門」を取り上げた「単元の構成」の中で、

「(「投網」との※筆者注)共通性に注意してほしい。それは青年の生き方の問題を提起しているという点である。「羅生門」の、右のほおに大きなにきびをもった下人は、まさしく青年であり、この下人は現代の青年に共通するエゴイズムの大問題を、身にあまる重さでかかえこんでいる。」(p67)

と、「羅生門」は、青年の生き方の問題を提起しているとし、エゴイズムが現代の青年に共通するとしている。

 主題については、

平安時代の一時期の荒廃した都を象徴する羅生門を舞台に、職を失った若い下人が示す人間としての極限の心理の推移と、それによって表わされたひとつの生の軌跡が主題。」(p78)

だとしている。吉田精一の「この下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。」を踏襲していると思われるが、「極限の心理の推移」と「生の軌跡」というような、多くの小説に言える、抽象的な表現で果たして良いのか、私は疑問に思う。その解説として、

「生きるか死ぬかという極限の世界で、人間として当然の正義感も否定され、悪を行なう以外には生きる方法がない。そういう状況で露呈される人間の生の暗さを背景に、ひとつの生の選択がなされる経緯をおさえたい。また主人公が青年固有の心情によって彩られていることにも注目したい。なお、「羅生門」の魅力はこうした主題だけにあるのではなく、羅生門という舞台のもつ怪奇な雰囲気の描写にあることにも注意したい。(p78)」

としている。人間の生の暗さと、青年固有の心情として説明し、舞台の怪奇な雰囲気は主題ではないが魅力の要素であるというのだ。

 また「下人の心理」の項に、

「そういう知的な構成は、吉田精一著『近代文学鑑賞講座・芥川龍之介』の当該項で静と動の対比として説かれている」(p88)」

と指摘している。この表現では吉田精一の説のように見えるが、「静と動の対比」は、「レポートの書き方」(至文堂1952)の高校生のレポート中にあったものである。確認すると、「近代文学鑑賞講座11」(角川書店1958p40)に「私が、以前ある著書に紹介した一学生のきわめてすぐれたレポートがあるので、その一部を引用して考察に代えたい。」とあった。指導書は続けて、

「より重要なのは、この部分で明示されているように、人間そのものの持つエゴイズム、存在の暗さなのであろう。(この点で、あとで触れる老婆の論理は彼の中にも潜んでいるのである)今、一つの点は、この下人の心理の推移自体が問題なのではなくて、そうした揺れ動く心理の背後に、人間というものが人の思い込んでいるほど確固たる存在なのではなく、きわめて不安定な存在だという作者の感覚が浮かびあがってくることである。」(p88)

と、エゴイズムが明示され、人間というものがきわめて不安定な存在だという芥川の感覚があると指摘している。後者の読みを私も支持するが、「不安定な存在」論はこの後姿を消し、類型的な「青年論」と、「エゴイズム論」およびその内在する結果への葛藤に傾いていく。私にはこの解説者が、吉田精一のエゴイズム論を自分なりに理解しようとして苦慮しているように思える。

「もう一つ押えておきたいのは、下人の心理が、人間固有の不安定さを示すとともに、青年特有の、言うならば独善的なロマンティシズムを示していることである。下人は老婆の醜行を目撃して、「老婆に対する激しい憎悪」を覚えていくが、それがいつしか「あらゆる悪に対する反感」にすり変わっていく。この場合の「あらゆる悪」は、きわめて不分明な措定で、下人自身それについて問いつめられれば、おそらく答えに窮するであろう。だが、彼の中には、「あらゆる悪」ということばで呼んでみたい、壮大な悪、実体的な悪そのものへの怖い期待が存在する。それは、その対極に位する(と夢想される)至高な善美への期待と表裏をなす。このようなきわめて主観的で感性的な善感への仰望は、人間の人生へかける夢の大きさに比例し、そういう夢は、まさに青年の特権であろう。」

「悪への反感から一挙に正義派に転身するありようは、また、青年客気の然らしむるところと理解できるし、同時にこれは、芥川の関心の所在を鋭く示す徴表でもあろう。ほどなく下人は、自らのとりひしいだ悪が、きわめて貧しげで下世話な所業にすぎず、自らが行きつもどりつした課題に隣りあったものであることを知り、幻滅に追い込まれる。下人の興奮は、一場のひとり相撲にすぎなかったのであり、下人のこの経験は、彼を大人の世界へいざなう一階梯となる。「羅生門」にこのような、人生へかけた夢の幻滅、青春への幻滅の主題を読む論調は従来ないが、同時期に書かれた「老年」「ひょっとこ」などに共通する幻滅の主題を思うとき、「羅生門」にこのような理解を加えるのは失当でないと思われる。」(p89)

というように、青年と大人が別物のような理解のもとに「人生へかけた夢の幻滅、青春への幻滅」といった独自の論が進められている。解説者は、青年というものは理想主義で、下人も青年だから理想主義なのだと考えているように私には思える。また、「老年」「ひょっとこ」が幻滅の主題だというのは誤読だ。「老年」は一生を放蕩と遊芸とに費した老人の話で、彼「房さん」は身上を潰しても人生になんの悔いも感じていない。一人部屋で、猫相手に謡をする。「雪はやむけしきもない。」の最後の言葉が示すように、好きな芸事をやめるとは思えない。どこに幻滅があるのか。「ひょっとこ」は飲んでいつものように踊っていて脳溢血で死ぬ男の話だ。彼は酒によって人格が変わる。どちらの自分が本当の自分かわからない。これは「羅生門」に通ずるものがあると私は思う。しかしどこに幻滅があるのか。したがって、演繹すれば「羅生門」が幻滅であるわけがない。

 この後老婆の論理について、

「岩上順一に興味深い説がある」

「簡単に言いなおせば、生きるためにはすべてが許される、ということにほかならない。」

「老婆の論理はわれわれに決して無縁ではない。われわれは同じ論理を暗々にでも選択して生きている場合が多いのである。」(p90)

とする。岩上順一の論は、吉田精一平岡敏夫も相手にしていない考えで、私も「羅生門」とは無関係だと思う。ただ岩上を擁護すれば、彼は「かかるアナルヒスムは、それ自身の論理によってそれ自らを否定せざるを得ないではないかと芥川は考えた。」(「歴史文学論」中央公論、昭和17)とまで書いている。その資料を巻末に載せているのに、ここでは前半だけしか抜粋しない指導書の解説者は抜粋の客観性を欠くし、その結果この後、解説者自らが混乱を続けていく。比喩について川崎寿彦著『分析批評入門』を引き、

「老婆の生が、人間というよりは動物の境涯と同じ地点にまで落ちてしまっていることが、あるいはここに暗示されているのかもしれない。ともかく、老婆の論理にわれわれは従いたくない」(p90)

と、急に老婆と「われわれ」は距離を置く。再び川崎寿彦氏の指摘を引き、

「老婆は自身の論理によって敗れ、破滅する。」

再び、

「我々が生きることは、けっして悪と無関係ではありえない。我々はからすやさると同様に生命を与えられ、それを損ねずに守りとおして行こうとする本能を賦与されている。我々のエゴイズムの根源はそこにあり、時として人間が動物と同じ境遇に堕ちるのも、生きるものの宿命として止むをえぬことであろう。」

と言うかと思えば、

「といって、我々の社会がまったく悪に支配されているということもできない。」

と言い、下人のように同じところを何度もぐるぐる低徊した挙句、最終的に、

「人間社会が、異常時に、その実相をさらけ出す。若さゆえに、純朴な理想主義を抱懐する下人は、いまようやく、その夢想から醒める時を迎えたのである。言うならば、作者に一歩おくれて、人生行路をたどっていた下人が、老婆の論理にふれて、はじめて作者と並び立つところに到違したのである。」

「こういう暗い世界、虚無の潜む世界で、芥川は自分に生きよと言いきかせたかったのかもしれない。」(p91)

とやっと主題を表明したかと思うと

「そのようにして生きていった果てに一体何があるのか。」

とたじろぐ。それでは社会のためにはならないと解説者が思ったからだろう。ならば、なぜこんなアナーキーな作品を「青年の生き方の問題を提起している」として、高校一年生に学習させるのか、そこをこそ問うべきであった。現実を知ることは、未来を変える可能性を持つのであるが、現実の分析と理想の探究は次元の違うものであり、分けて考えるべきなのだ。だからこそ、まず目の前の作品の分析を虚心坦懐に行わなければならないのである。しかし、指導書の文体が示すように、解説者は自分の持つロマンチズムを芥川と下人に投影しているに過ぎない。

 

テスト問題の例が載っている。以下に示す。

〔三〕 発展問題(記述・論述式問題を含む) 〈計 25点〉

  次の文は、吉田精一氏の「羅生門」鑑賞の一部で、その著「芥川龍之介の人と作品」より抄出したものである。よく読んで後の設問に答えよ。

 

 作者(龍之介)は単純な原文の筋に、近代的な味を加え、盗人の代りに、主家から暇を出されて生活難に苦しむ下人を主人公にした。

 (中略)この下人のAを主題とし、あわせて、生きんがために各人各様に持たざるを得ぬBをあばくのがこの作の主眼であったのだろう。思うに、彼がみずからの恋愛に当たって痛切に体験した、養父母や彼自身のBの醜さと、醜いながらも生きんがためにはそれがいかんともすることのできない事実であるという実感がこの作をなした動機の一部であったに相違ない。もし理想主義の作家であったならば、下人が盗人となろうと思った心を、嫗の醜い行為の前に、翻然と忘れて義憤を発する所で巻をとじるか、あるいはそうした悪心を捨て去らしめて結論するであろう。しかし龍之介はかえって熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷いBにとらわれる、善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とBの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし、そこから下人のエゴイズムの合理性を自覚せしめている。ここにとらえられた下人の心理の推移は、恐らく芥川の眼に写った人間が人間である限り永遠なる本質であった。したがって彼はこの人間性に対する最終的な救いや解決も与えていない。一番最後に「下人の行方は、誰も知らない」と言っているだけである。(初めて発表された時には、最後の一行はこれとちがい、「下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」とあった。)この人間に対するC感が、やがて後年の彼を自殺に導いたと見られないこともない。

 問一 文中の  ABに、文中に用いられた語句を選んで、各々適切に補え。                  〈4点〉

問二 文中の  Cに適切な漢字二字の語を入れよ。〈2点〉

問三 、問四 (略)

問五 ―線3「そのような人間の生き方」とは、前のどういうことをさすか。                  〈4点〉

問六(略)

  

とある。吉田氏の論を答えさせるものだ。しかし、よく見ると生きんがためにはそれがいかんともすることのできない事実であるという実感がこの作をなした動機の一部」(傍線筆者)と控えめにしか吉田氏は言っていない。さらに、吉田氏は芥川の『あの頃の自分のこと』に、

「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状を懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかった。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取つて、この二つの短編を書いた。書いたと云つても発表したのは「羅生門」だけで」

「この作の作意は、前にあげたやうに、失恋の気分を転換する意味で「現状とかけ離れた、なるべく愉快な小説」といふにあつたらう。しかし、舞台を現代に仰がずに平安朝の古にとつたことは、元来の彼の性情なり趣味なりにもとづくものであって、失恋による現実嫌悪や逃避の要求は、本来の気持ちを一層強く、一層直接に動かしたにすぎない」(「芥川竜之介三省堂1942p68)

と書いている。ここで言う「本来の気持ち」とは、文脈を辿れば「元来の彼の性情なり趣味」となる。失恋の気分を転換する思いが、彼が本来求めている異常な物語を書かせた、と言っているにすぎない。これが、エゴイズムが主題である証明だと、とても私には読めないのである。ではどこからエゴイズムは出てきたのか。吉田氏は芥川が新進作家として世に出た時代を、

「もつと人生の複雑性を認識し、単純な善悪観念を再認識して、個人の意識や生活をそれぞれその特性に即して理解することを、自由主義のより徹底した、しかしより限定された思想を、次の世代は希求したのである。龍之介等の出発した思想的地盤はこのやうなものであった。」(芥川龍之介研究・河出書房1942p25)

「個性に徹して、その底に個々人それぞれの自我主義、利己主義をつかまうとする彼らの方向は、同じ場所に普遍的人間性を見ようとする前時代の思想と正に反対の方角を指すものだつたのである。」(同)

と書いている。「彼ら」に注目したい。生い立ち、時代背景、交友関係を元に作家を理解しようとしている。それはその時代の普通のことだったろうし、もちろんそれらが重要な資料になることを私は否定しない。しかし、人はその内部に多様なものを抱えている。それを「彼ら」と、一つの法則で割り切って良いものでない。白樺派の理想主義に飽きたらぬからと言って、常に利己主義の話を書くとは限らないのだ。「おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」確かにこれだけ見れば利己的な言葉だ。しかし言葉はどのような文脈で発せられたのかを考えるべきだ。直前に「きっとそうか。ならば恨むまいな」がある。条件付きなのだ。文脈を無視して意味は存在しない。

 

 

テスト問題が生徒に与える影響は大きい。生徒にとって正解は真理だからである。