maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」十二 第一学習社「高等学校現代国語一」 昭和四八年(1973年)

第一学習社「高等学校現代国語一」 昭和四八年(1973年)~五十年版

 

 第一学習社は四八年から三年間、六年後の昭和五七年から平成二十五年まで連続で採録している。 

「来年度から高校国語に新設される科目「現代の国語」用に、現行シェア三位以下の第一学習社広島市)が作った教科書が、全国シェア16・9%をとり、現行最大手の東京書籍版を抑えて最多だったことが問題になった。」(朝日新聞2021/12/9)

文科省は「小説の入る余地はない」と説明してきたにもかかわらず、第一学習社が『羅生門』『夢十夜』など近現代の文学作品を多数載せたからである。ライバルである他社から「言っていたことと違う」との批判が高まっている。」(毎日新聞2021/9/23) 

と、一躍有名になった第一学習社であるが、幸田国広氏によると、昭和四八年は「羅生門」が採録率40%を記録した第一のピークであり、その時から第一学習社採録を始めている老舗と言える。

 検定問題は図らずも検定の一面を教えることとなった。平成十五年には100%採録を記録した定番「羅生門」をなぜ、他の会社は採録を見送ったのかという問題だ。文科省の説明を聞き、検定を通れないと教科書会社は判断したのだ。つまり、検定を通らない可能性が高い教材は採録しない、逆に言えば通る可能性がある、例えば過去に通っている教材は採録しやすいということだ。では、文科省の言うことと違う教材がなぜ検定を通ったのか。過去に通しているからだろう。もしかすれば、文科省の文学軽視の新方針への現場の反旗なのかもしれない。惰性か反旗か、私にはわからないが、次回の検定から「羅生門」が増えるのではないだろうか。

 本題の第一学習社の指導書に話を戻す。

 主題は、

 「一語で端的に表現するならば、「人間の持つエゴイズムの醜さ」と言うべきであろう。盗人になろうかと思っていたことも忘れて、老婆の嫌悪すべき行為に、激しい正義感を持つに至った下人ではあったが、生きるためにはしかたがないという老婆の言葉に、冷たいエゴイズムが首をもたげ、老婆の着物をはぎとってしまう下人の心理の推移を描きながら、生きるためのぎりぎりまで追いつめられた人間のあらわで、醜いエゴイズムの姿こそ、この作品の主題である。」(p100)

としている。吉田説である。「学習」に「四 作者は、「人間の心」をどのように考えているか、下人や老婆を中心に話し合ってみよう。」として、

  「この作品は老婆の悪業・告白に対する下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために、各人各様に侍たざるを得ぬエゴイズムをあばくのが主眼であろう。芥川はみずからの恋愛に当たって痛切に体験した、養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと、しかし生きるためにはそれがいかんともしがたい事実であるという実感がこの作品を作らせた動機の一部であったに違いない。もし理想主義の作家であったら、下人が盗人になろうと思った心を、老婆の悪業の前に、翻然と忘れて義憤を感ずるところで結末とするか、あるいは悪心を捨て去らしめて終わりとするであろう。しかし作者は、激しい正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる、善悪いずれにも徹底し得ない不安定な人間の姿をそこにみたのである。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、人間の生き方がありと考え、下人のエゴイズムの合理性を自覚せしめている。彼がこの人間性に対する最後的な救いや解決を与えなかったのは、この下人の心の動きは、人間が人間である限り永遠なる本質であると考えていたからであろう。」(p109)

としている。吉田説そのものであるが、出典は書いていない。

 指導書のほとんどが、語句の解説に費やされ、鑑賞にはそれほど目を引くようなことは書かれていない。