maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」七 昭和38年中央図書出版社

 前述した、三省堂の指導書(昭和33〜37)に関して、付け加えることが出てきた。前述の「高校生のレポート」が、手引きの答えとして出典を明らかにしないまま指導書に使われていたのだ。もう少し具体的に言うと

【研究】

1 下人の心理の推移を中心にして段落を切り、その各段ごとに彼の心の状態をはっきりさせよう。(三三年度版p102)

1 局面の展開に従って段落を切り、下人の行動と心理状態を抜き出してみよう。(三五年度改訂版p141)

というように、改訂版では表現が若干違うが、

「三 研究の解説」に

「1a 雨やどりをしている所」(p93下10行)から「悪の実行となる。」(p94上18行)まで、abcdの表記までそのまま使い、三十行にわたり「『羅生門』について」から引用している。しかも引用したとは書かれておらず、参考文献にも「レポートの書き方」の名は見えない。高校一年生が書いたとも知らず、多くの高校教員が指導書の文章を読んでいたことを考えると、一種の爽快感を感じるが、100%引き写しなのだから出典は記載すべきであった。

 つまり、昭和三三年から三七年まで、明治書院三省堂の教科書を使う生徒に、この高校生は影響を与えていたことになる。

 

 

高等学校現代国語Ⅰ 教授資料」(中央図書出版社)遠藤嘉基・塚原鉄雄編 昭和三十八年一月二十日発行 500円

単元は、Ⅴ「短編小説を読んで、主題や構成を考える。」(p135)とあるように、「高等学校新国語 総合一」(三省堂)の「人間性」のような、単元目標をひとことで表したタイトルはついていない。「安井夫人」「羅生門」「レポート「羅生門」について」で9または10時間が当てられている。9時間の場合は「羅生門」を2時間でするとされている。現代の感覚では、3時間でも無理がある。注釈は一気に増える。67箇所について施されている。体裁や内容において、ほぼ現在の教授資料に近い。

 この教科書は、明治書院の「レポート「羅生門」について」を踏襲したが、明治書院とは違い、教科書本文に吉田氏の文章は掲載されていない。「レポート「羅生門」について」は昭和四七年まで採用されたので、昭和三二年から一五年間三つの教科書を渡りながら使われたということになる。

「レポート「羅生門」について」は、指導書p161に

1作者作品解説 

作者 このレポートの作者は(生徒作品)となっており、個人名が書かれていない。生徒とは、このレポートの出典とされている「レポートの書き方」によると「高等学校の学生」(同書五七ページ四行目)となっている。このレポートの紹介引用者は吉田精一氏である。

とある。この記述から、出典が明らかにされていないことに中央図書も違和感を持ったような印象を私は受けた。また、

 すぐれている点として

①「羅生門」を文章表現に即してきわめて緻密に読み取っていること。「文章表現を離れて文学はない」という根本態度をよく身につけて作品を精読していること。

②作者芥川龍之介についての知識や他の読書体験を効果的に生かしていること。

③人間もしくは人生についての理解力が高校生としては、非常にすぐれていて作品における人間性の解釈、下人の心理の読み取り方が的確で注意深いこと。

④読み取り、感じ取ったことをよく自分でかみこなし整理していること。

⑤レポートの書きあらわし方が整然として文章表現が正確であり、箇条書きや、表による表わし方などがよく工夫され、効果的であること。

⑥全体として極めて客観的に謙虚な態度で一貫され、高校生にありがちな安易な独断や、恣意的な感想や、知識の衒いがないこと。

物足りぬ点としては、

①参考資料をあげていないこと。(「レポートの書き方」に指摘されている。)

②まず「主題」について述べ、次に「文の構成および技巧」について述べられているのだが、後者を述べた上で再びそれを主題と連絡づける結びの章がほしい。

③主題に関連して作者龍之介と主題の関係についての筆者の考えが知りたい。

とある。②は吉田氏も指摘していることであり、私も大切な視点だと思う。

 

 では、この教授資料はエゴイズムをどのように扱っているのか。エゴイズムという表現を全て以下に抜粋する。

主題

 平安時代末期の、生活に追い詰められた下人の心理の推移を主題として、不安定な人間の哀れな姿を描き、あわせて生きんがために、各人各様に待たざるを得ぬエゴイズムをあばき出している

構想

 平安時代末期の暗黒の社会と、荒廃した羅生門の情景を背景とし、餓死をまぬがれんためには、悪を働く以外に道がない極限状態に、主人公たる下人を設定し、それに配するに醜い老婆をもってし、二者択一を迫られた下人の人間的迷いから、悪に対する衝動的な正義感の怒りへ、ついで、悪を肯定するエゴイズムヘの暗い傾斜・決断へ、更に、敢然たる悪の行動へと推移してゆく心理を克明に描写してゆきながら、人間の弱さと、抜きがたいエゴイズムを絶望的に描き出してゆく。

とある。また「下人のゆくえは、だれも知らない」について、

小説の結末をあらわす文である111ページ一行で、下人が夜の底へかけおりて去ったあとに、老婆の鬼気迫る描写が続く。その文章も作品を終局へ導く叙述であるが、そのあとにこの一文が置かれたことによって作者の深い感懐が、余韻として感ぜられる。生きて行くためには、現実の醜さを肯定し、結局はエゴイズムに走る人間を描き、虚無的な絶望的な余韻を残している。

とある。まず吉田氏の表現を使ったものから始まり、「エゴイズム」という表現は計四回使われる。三省堂の四二年度版「高等学校新国語 総合一」のように、「得意と満足」に関連づけることはなく、吉田氏と同じく「悪を肯定する」ことをエゴイズムとし、「抜き難」いものだとしている。

 参考文献には

芥川龍之介吉田精一 三省堂(昭和17)

芥川龍之介の回想」下島 勲 清文社(昭和22)

芥川龍之介」山岸外史 酣燈社(昭和25)

「芥川文学事典」(山田孝三郎 岡倉書房新社(昭和28)

「旧友芥川龍之介」恒藤 恭 河出文庫(昭和28)

芥川龍之介宇野浩二 文芸春秋新社(昭和28)

芥川龍之介の芸術と生涯」吉田精一 河出文庫(昭和26)

芥川龍之介吉田精一 河出文庫(昭和29)

芥川龍之介読本」高木 卓 学習研究社(昭和33)

「近代名作鑑賞」長谷川泉 至文堂(昭和33)

「国文学」芥川龍之介の総合探求 昭和三十二年二月号学燈社 

「文芸読本 芥川龍之介」荒 正人 河出書房新社(昭和昭37)   

が挙げられている。協力担当は相楽俊暁、とされている。

 また、参考資料として、

1「今昔物語第二十九巻、第十八の原文」として該当箇所の全文

2「或阿呆の一生 九」からとして「死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げていた。」から「杏の匂いに近い死体の臭気は不快だった。」まで。医学部の死体解剖の立ち会った経験を記したものだ。

 「右の「王朝時代に背景を求めた或短篇」とは「羅生門」であると推測される。」と説明がされている。

3「澄江堂雑記から」として

「今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。」から「不自然の障害を避ける為に舞台を昔に求めたのである。」まで。なぜ物語を昔に設定するかを述べた部分である。

4「吉田精一氏は「「芥川龍之介の芸術と生涯」(河出書房刊)の中で、右の文を引用して次のように述べている。」とし、

「①歴史的な小説の性格について」で「澄江堂雑記」の「古人の心に、今の人と共通する、いはばヒューマンな閃きを捉へた」という記述を芥川の他の歴史小説との違いとしている。「②羅生門の主題について」で吉田氏の意見「この下人の心理の推移を主題としあはせて生きんが為に、各人各様に特たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。思ふに彼が自らの恋愛に当って痛切に体験した養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと醜いながらも、生きんが為には、それが如何ともすることの出来ない事実であるといふ実感が、この作をなした動機の一部であつたに相違ない。もし理想主義の作家であったならば下人が盗人とならうと思った心を嫗の醜い行為の前に翻然と忘れて義憤を発する所で巻をとぢるか、或はさうした悪心をすて去らしめて結局するであらう。しかし龍之介は却ってそこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめてゐる。さうしたエゴイズムの醜さをのがれやうとすれば彼の生存を否定するよりほかはない。ここに龍之介の感じ且つ生きたモラルが見える。」を紹介し、「③芥川龍之介「今昔物語について」で芥川の文の抜粋を載せている。つまり、参考文献の半分は芥川の文章であり、半分は吉田精一の文章なのである。それ以外の人の文章はない。

 吉田の「羅生門」の解釈は、昭和26年の河出書房版「芥川龍之介」では、昭和17年の三省堂版「芥川竜之介」から若干の表現の変化はあるが、キーワードや言わんとすることは変わらない。中央図書出版社は、かなり細かく語釈を施し、参考資料も詳しく抜粋した。しかし、エゴイズムの根拠は、たったこれだけしか示せていないのだ。

 

 今まで、私は吉田精一氏に礼を失しないように控えめに述べてきた。しかし、今はっきり言う。彼の読みはあらすじ読みではないのか。餓死しそうな下人が盗みをした、から導き出したので、生きる為には悪いことも仕方ないよね、なんだろう。「俺も飢え死にする体なのだ」と言ったなら、作者も認めていることに果たしてなるのか。では、「かうなれば、もう誰も嗤ふものはないにちがひない。」と書いてあるから、鼻が元に戻った内供を笑うものは誰もいないとなってしまうのか。あまりに幼稚な読みではないか。今昔では登場しないインチキ商売女がなぜ「羅生門」に登場するのか。今昔では死体の着物も剥ぐのにその描写がないのはなぜか。今昔と同じ部分が主題だとするより、違う部分、芥川が作った部分の必然性を読み解くことこそが文学ではないのか。芥川の言う「古人の心に、今の人と共通する、いはばヒューマンな閃き」を、飢え死にしない為に盗みをするという、あまりに表面的なこととして吉田氏は捉えてしまっている。私は老婆の理由づけ、揚げ足取りの下人の理由づけに「今の人と共通する」ものを見るべきだったと思う。

 吉田氏は「彼が自らの恋愛に当って痛切に体験した養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと醜いながらも、生きんが為には、それが如何ともすることの出来ない事実であるといふ実感が、この作をなした動機の一部であつたに相違ない。」と書いた。なぜエゴイズムという言葉を使ったのかについては、芥川が「羅生門」を発表した大正四年九月の半年前、三月九日井川恭宛の書簡に「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁を渡ることは出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない 周囲は醜い 自分も醜い そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのままに生きることを強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ 僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ時がある 何故こんなにして迄も生存を続ける必要があるのだらうと思ふことがある そして最後に神に対する復讐は自己の存在を失ふ事だと思ふ事がある 」(第十七巻p 252)で、「イゴイズム」の語が見られるからである。しかし、吉田氏は作品の表現の細かな読み取りから帰納したのではなく、当時の芥川の書簡から「羅生門」の主題を演繹しようとしたようにしか思えない。吉田氏は芥川の書簡の「周囲は醜い 自分も醜い」を「養父母や彼自身のエゴイズムの醜さ」と言い換えている。自分の醜さは、吉田弥生に婚約が決まったと知ることで、彼女への愛に気づいて、彼女や婚約者の戸惑いを顧みず結婚を申し込もうと考えることとしても、果たして「周囲」を「養父母」に限定してよいのであろうか。「生存苦の寂莫」と言い、「自己の存在を失ふ」ことで神に復讐するというのだから、とても重大なことが彼にあるはずだ。「養父母」だけではなく、私は実父母も含めて考えている。つまり、この書簡から龍之介が出生の秘密を疑っていた可能性を感じるのだ。「太宰と芥川」(福田恒存、新潮社, 1948 )に描かれたこと(p103)が真実か私にはわからない。しかし、吉田氏の指摘した書簡は、「羅生門」との関係を示すより、むしろ福田氏の指摘の可能性を示す可能性がある。大正四年三月九日井川恭宛のこの書簡は、私ならその半年前に書かれた「青年と死」に関連する書簡だと思う。「青年と死」は前半に相手不明の性愛、後半に死への願望が描かれている。少なくとも「愛」は関係しているが、「羅生門」に愛が描かれているか、死への願望が描かれているか、否としか言えない。「羅生門」との論理的な繋がりがないにもかかわらず、教科書会社が参考資料としてこの部分を出すことが、エゴイズム論をますます一人歩きさせてしまったのではないか。

 「芥川竜之介 改訂版」(三省堂、1948)の中で、吉田氏は、森鷗外の影響として「『jsnusといふ神様には、首が二つある。どつちが本当の首だか知つてゐる者は誰もゐない。平吉もその通りである。』といふやうに、ふいと横文字を交へ、博識をしめすのは、鷗外文章の顰みにならつたものといふべきである。」(p67)と述べている。私も初めて見た時は博識を見せるものと思っていた。しかし、今はそう思っていない。単に鷗外の形を真似ただけとも思わない。吉田氏が例として示した、二面性を持つ男を描いた「ひょっとこ」では左右を常に往復する「Metronome 」も使われ、「虱」では虱を殺さず飼う人には先駆者を意味する「Pre'curseur、」が、虱を食う人には宗教迫害者を意味する「Pharisien」が使われている。初期作品においては、原語表記は、単に博識を見せるのではなく、テーマを暗示しているのではないのか。とすれば、「羅生門」において、「Sentimentalisme」はテーマを示しているのではないのか。思想ではなく、周囲の状況や他人の言動によって動く感情に支配される、まさに下人をひとことで表現した言葉と言える。吉田氏の「この下人の心理の推移を主題とし、あはせて生きんが為に、各人各様に特たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである。」の「あはせて」以降は言い過ぎであり、むしろ前半の、言葉足らずではあるが「心理の推移を主題とし」の方にこそ、「羅生門」の本質があると私は思う。インチキ商売女を登場させることで、自分の行動への免罪を他者に求める連鎖が完成する。その場限りの言い繕いなのである。