maturimokei’s blog

俺たち妄想族

小説ワリエワ

 

 私には二つの選択肢があった。一つは音楽が鳴ってもリンクに立ち尽くすことである。しかし、それは同時に抗議の意味を含み、私の本意ではなかった。もう一つは転倒である。それは誰にも証明できずに目的を果たせる。私の目的は一つ。三位以内に入賞しないことである。入賞すれば、大会中の表彰はなくなり、シェルバコワを初め他のオリンピアンに申し訳ないことになってしまう。
 ドーピング検査で陽性と判定された時、信じられなかった。一瞬、いつも飲んでいるナピータクが頭によぎった。スポーツ選手なら誰でも自分専用のドリンクを持っている。ドリンクを共有しないのは、コロナウィルスが流行するずっと前からだ。大会に出場する者にとっては常識だ。会場で誰かが薬物を混入させる危険性があるからだ。練習用のナピータクも、私たち一人一人の体脂肪率や酸素吸収率に合ったものを、個々用に作られているから、絶対に他人の物を飲まないようにと、トゥトベリーゼコーチから注意されていた。私たちの食べ物は全て管理されている。私のナピータクにだけ入れられていたのだろうか、いや、そんなことはない、これは何かの間違いだ。検査の前日に私が不注意で口にしたものがたまたま検出されたのだ。そう信じたい。そう自分に言い聞かせて練習を続けてきた。
 拍手が響く。シェルバコワが終わった。次は最終滑走、私の番だ。バッシングを受けたが、私はショートプログラムを一位通過した。それは私のプライドをかけた滑りだった。不覚にも演技が終わった瞬間、涙を流してしまった。ショートで泣く選手なんていない。私のオリンピックへの挑戦はもう終わっている。今から起こることは決して誰にも言わない。それが私のもう一つのプライドだからだ。
 ボレロが低く始まった。私は静かに滑り出す。四回転サルコウ。見てほしい。私の最後のジャンプ。踏み切る。良い回転だ。着氷。決まった。一番勇気がいるのは最初のジャンプだ。多くのスケーターが最初のジャンプで躓く。ここで成功すれば乗っていける。体調は悪くない。でも、惜しいけれど、これで終わったのだ。あとは、転倒するだけだ。新しい技を始めると転倒はつきものだ。怪我をしない転倒の練習もしてきた。転ぶのはお手の物だ。こんな時に役に立つなんて。次のトリプルアクセルは余裕だからステップアウトしよう。手を着く。コンビネーションの二回目の転びがぎこちなかった。わざとらしかった。もっと上手に転ばなきゃ。コーチにはばれたかな。でも、これで良いのだ。転んで、そして立ち上がる。

 私を映すドローンが飛んでいる。私は何回スピンしても眼球が揺れることはない。時速20マイルで滑走しながら審査員の表情を読み取ることができる。今日は審査員の目に動揺が見られる。そうやって滑っている私を右斜め上からもう一人の私が見ている。いつもと同じだ。

 私がコーチから特別育成選手に指名された時のトルソワの目を思い出す。指名されなかった彼女が悔しがると私は思っていた。でも、そうではなかった。彼女の目の中にある、私を憐れむ色がずっと気になっていた。私は子供で嬉しさばかりだったけれど、彼女はすでに知っていたのだ。今になればわかる。コーチは私たちに言った。あなた達はライバルではない。あなた達は自分の役割を演じるのだと。私の役割をトルソワはその時知っていたのだ。
 ボレロに打楽器が加わった。音量が上がる。リズムがはっきりしてくる。後半だ。フィギュア団体で金を取った時、唯一失敗した四回転トゥーループ。これは成功させたい気持ちもあった。ああ、この失敗はやはり悔しい。あっ、コンビネーションジャンプを成功させてしまった。得意技だから体が覚えている。気持ちに反して、体があらがう。ゆっくり、ゆっくり、もっと技のキレを無くさないと。でも、音楽が鳴ると、氷の削れる音がすると、体が、体が、動く。動く。シンコペーションに体が反応してしまう。レイバックスピンから足換えのスピンへ。回転が上がっていく。速すぎる。でも回る。回る。ああこのまま回っていたい。私はスケートが好きだ。大好きだ。

 演技が終わった。でもこの手は何だろう。最後の音と同時に突き上げた拳。全く今の私の気持ちに似つかわしくない。これほど気持ちと動作とがちぐはぐなものがあろうか。この突き上げる拳も演技の一部として私の体に条件づけられたもの。毎日毎日体に覚えさせたもの。ちょっと笑ってしまう。

 私は氷の感触を確かめながらリンクの出口に向かう。明日からどんな日々が始まるのだろう。わからない。私は何のために滑ってきたのだろう。オリンピックって何のためにあるのだろう。わからない。ただ一つわかっているのは、私はスケートが好き、体がスケートを全力でしたがっているということだ。今日は眠ろう。明日目が覚めれば、リンクに立ちたい。そして思いっきり自由に滑ってみたい。いつまでも滑っていたい。

 

 これは2022年冬季オリンピックフィギュアスケート女子決勝最終演技者の予選決勝における中継放送の彼女の行動と表情、および彼女に関する報道をもととしたフィクションである。

 

(参考報道)

2019年12月9日 世界反ドーピング機関(WADA)は、ロシアの国家ぐるみのドーピング不正にまつわるデータ改ざんに関して、ロシア選手団を4年間、オリンピックを含む国際的な主要大会から除外すると決定した。なお、個人の参加は認める。
2021年11月27日
 カミラ・ワリエワ(ロシア15歳)がフィギュアスケート女子で世界歴代最高得点272・71点を記録し、GPシリーズにおいて2連勝。
2022年2月7日 
 北京五輪女子団体戦において、ワリエワはフリーで2位に30点以上の差をつけ、ロシアオリンピック委員会が首位に立つ。
2月8日 
 スウェーデンの検査機関が、21年12月25日に行われたロシア選手権でワリエワの検体から禁止薬物のトリメタジジンが検出されたことを報告。前日行われたフィギュア女子団体のメダル授与式が中止になる。
2月14日 スポーツ仲裁裁判所がワリエワが16歳未満の要保護者であることを理由に、五輪出場を認める裁定を下す一方、彼女がメダルを獲得した場合、女子のメダル授与式は行わないことに決定。
2月15日 
 女子ショートプログラムでワリエワが首位に立つ。
2月17日19時
 女子フリー開始。トルソワ(ROC)は、演技後ハグをしようとしたエテリ・トゥトベリーゼコーチに「身をよじって避け「嫌よ。みんな知ってるのよ。」と厳しい言葉を浴びせて、その場を立ち去った。」(2.18スポーツ報知)
 ワリエワはジャンンプで何度も転倒。演技終了直後、欧米メディアによると、トゥトベリーゼコーチは「演技を終えたワリエワに「説明しなさい。なぜ諦めたの?」などと詰問した。」(2.18日本経済新聞

金=シェルベコワ、銀=トルソワ、銅=坂本花織、4位=ワリエワ

2月20日 北京五輪閉幕。

2月21日 ワリエワ練習開始。自身のインスタグラムに投稿。「アスリート人生で最も重要なイベントに導いてくれた方々に感謝したい。私を強くしてくれてありがとう」(時事通信「あなた(=コーチ)はあなたがすることに関する限り絶対的なマスターだ。あなたは単純にトレーニングだけでなく自身を克服する方法を教える。これはスポーツだけでなく人生を生きていくのに役立つ助言」「ファン、家族、友達、コーチ、ロシアオリンピック委員会、チーム全体、祖国、全世界の人々に感謝する。ありがとう。私は永遠に感謝する。私はこれを常に記憶し感謝しながらあなたのためにスケートをするだろう」(2.23中央日報

2月24日 ウクライナ外務省は24日、同国内の複数の都市が攻撃を受けたと発表した。首都キエフがミサイル攻撃を受けているという。ロイター通信が伝えた。ウォールストリート・ジャーナル紙(電子版)などの米メディアは日本時間の同日午後、ロシア軍がウクライナ東部へ攻撃を開始したと報じた。

2月25日 ウクライナのシュミハリ首相は24日、北部にあるチェルノブイリ原子力発電所が戦闘の末、ロシア軍に占拠されたと明らかにした。(NHK

3月3日 サポリージャ原発、ロシア軍の攻撃を受け火災。(NHK

3月4日 プーチン大統領は、ロシア軍に関する「偽情報」を広めた場合に最長で禁錮15年の刑を科すなどとした法案に署名し、同法は成立した。(時事ドットコム

4月26日 大統領府クレムリンで、プーチン大統領がオリンピックのメダリストを集め勲章を授与。ワリエワ選手について「スポーツを芸術の頂点に引き上げた。これは追加の手段を借りて不正に達成できるものではない」と功績をたたえた。一方、シェルバコワ選手や3つの金メダルを獲得したアレクサンドル・ボルシュノフ選手らが欠席した。(テレ朝ニュース)