maturimokei’s blog

俺たち妄想族

「羅生門論2」四 「高等国語総合2」昭和三十二年~高校生のレポート

「高等国語総合2」(明治書院昭和三十二年~三十七年

 「羅生門」の載った最初の教科書の一つである。同年に登場した数研出版(既述参照)と有朋堂版が、選択教科の教科書であったのに対し、明治書院版が唯一の必修教科用だったことも大きい。明治書院の当時の日本における教科書採択率はわからないが、現在かなりの大手であり、私は何年もお世話になった。昭和三十五年に明治書院は「新釈漢文大系」を世に出し、出版社としての評価を得て地歩を固めていっていたであろう。何よりも「羅生門」の載った最初の教科書であったことは、その指導書が後々他社に影響を与えていくことは十分考えられるが、残念ながら、教科書図書館では明治書院の指導書を発見することはできなかった。しかし、この教科書には、「羅生門」の後に、「研究と報告」という題目で、高校生のレポートが採録され、さらにその批評が掲載されている。それらによって、主題について指導書がどう扱っているかはある程度類推できる。(p二三八〜二五〇)私はこのレポートと批評の後世への影響は、大きかったと考える。
 以下、「羅生門」の学習の手引きに続き、「研究と報告」の全文を引用する。(傍線は筆者による注目点である)


学習の手引
一、この作品の読後感を話しあつてみよう。
二、作者は下人の取り扱い方に近代性を導入しているが、古代の物語の登場人物と、この下人とを比較してその違いを考えてみよう。
三、次のレポートおよびその批判を読んで、それを参考としてこの作品の研究をしてみよう。
四、できれば芥川龍之介の他の作品を読んでみよう。


研究と報告

 ここに一高校生のすぐれたレポートがあり、それについて吉田精一氏が適切な批判と注意を加え、さらに「よいレポート」を書く心がまえを述べられた。これを指針として、わたしたちも題目を選んで研究し、よい報告を作ってみよう。

羅生門」について     高 校 生

⑴主題
 「羅生門」のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。すなわち、晩秋の夕方、主人から暇を出され、雨に降られて、羅生門で、生への欲求と良心との板ばさみになって途方にくれていた下人が、死骸の頭髪を抜いている老婆の姿に憤激し、感情の高まりのままに、老婆を通して悪に対して激しい憎悪の念をいだくが、老婆を足下に押さえつけ、次第に冷静になってくると、かれの心に、エゴイズムが生きようとする意欲となって強く現われ、「では、おれが引き剥ぎをしようと恨むまいな、おれもそうしなければ、飢え死にするからだなのだ。」という捨てぜりふを残して暗やみのなかへ去ってしまう。
 人間というものは、一時的に熱烈な正義感に駆られることもあるが、やがて冷たいエゴイズムにとらわれてしまう。否、熱烈な正義感に駆られている時でさえも、その根底にはエゴイズムが無気味に横たわつている。
ーー芥川は「羅生門」で、このような人間の心の推移を、平安時代の物語という額ぶちのなかで描いている。「羅生門」のテーマは一応このように考えられる。しかし、芥川は意識しているかどうかは別として、もっと深いものを「羅生門」で描いているのではないだろうか。パスカルは、パンセの中で、人間について、「真理の貯蔵所にして不確実と誤謬の排泄腔、宇宙の栄光にして同時に廃物。」と評しているが、芥川も、そのような中間的な不安定な人間の姿をかれの文学のなかでとらえ、描いているのではあるまいか。
 「羅生門」のなかでも、かれは、普通にいわれているように、ただ人間のエゴイズムを描いているのではなく、善にも悪にも徹底し得ない不安定な、不確実な人間のあわれな姿を、悪に激しく反対する良心ーー正義感(後でもいうが、この場合の正義感は、世の多くの正義感と同様に、決して純粋なものではない。)と、他人を押しのけてもなんでも生きようとする強いエゴイズムとの葛藤を通して描いているのではないだろうか。
 また「この下人が、長年使われていた主人から暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波に外ならない」(二二八ページ三行)とか、老婆の「飢え死にをするのじゃて、仕方がなくすることじゃわいの。」(二三五ページ一四行)という文句を読むと、、社会の力に支配されている人間のどうにもならない宿命といったようなものを感じるが、後期の一部の作品を除いてはあまり社会という問題をとりあげなかった芥川であり、とくに「羅生門」がきわめて初期の作品であることを考えると、あまり強く社会のことを頭におかないほうが安全であると思う。
 芥川は「羅生門」でこのようなあわれな人間の姿を描いているが、それに対する解決なり、救いなりを全然与えていない。ただ一番最後に、「下人のゆくえはだれも知らない。」といっているだけである。このことは、後期のかれの作品に強く現われた暗いかげ、ひいてはかれの自殺と相通じているものであるとも考えられる。
⑵ 文の構成及び技巧
 次に文の構成の技巧を見ると、なかなか巧妙に伏線を作り、起伏(静と動、善と悪、夢幻と現実等)を設けており、作意的に過ぎる感がないでもない。
 今、下人の心理の推移を中心にして、文を切つてみる。
a 雨やどりをしている所。
(二二六ページ一行ー二三〇ページ二行)
 生への欲求と今まで自分を律してきた善悪感との板ばさみになり途方にくれている。すなわち、ここでは善も悪もともに支配的ではなく、非常にあいまいな状態である。
b 階段の途中で上をのぞく所。
(二三〇ページ三行ー二三一ページ一〇行)
 外部からの強い刺激によって、生への欲求も、それを押さえていた良心も吹き飛ばされてしまい、恐怖と好奇心が完全に下人の心を支配してしまう。
 ここで一応今までのもやもやした状態を清算して、善と悪に関して下人の心を白紙に返したのは非常に重要であり、c・dへの発展の基礎をなしており、aとcとをなめらかに結ぶ役目を果たしている。
c 老婆の所行を目撃し、老婆と格闘する所。
(二三一ページ一一行ー二三三ページ一三行)
 雨の夜に、羅生門の上で、死人の髪の毛を抜いている老婆の姿を通して、あらゆる悪に対する反感が、恐怖心・好奇心に代わってかれの心を支配する。しかし、この場合のかれの正義感は、決して合理的なものではなく、また非常に自分勝手なものである。このことは、のちのかれへの伏線として見のがし得ないものである。
d 老婆を征服した所。
(二三三ページ一四行ー二三五ページ五行)
 今まで対等な立場にあつた老婆を征服し、目的を達したので、得意と満足とがかれの心を占めるようになる。
 ここに、エゴイズムが悪の衣をまとって頭をもたげるすきが生じ、老婆の「この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」という答にも一度憎悪を感じるが、そこには、冷たい侮蔑が交ってくる。
e 老婆の理屈を聞き、引き剥ぎする所。
(二三五ページ六行ー最後)
 前述のように、すでに条件がそろつた上に、答弁の中に現われた老婆のエゴイズムに誘われて、下人の心に、頭をもたげかけていたエゴイズムが爆発し、悪の実行となる。
 以上、善・悪を中心とする下人の心の推移によって文の構成を調べたが、今度は、場面の静と動の組み合わせによって、文の組み立てを考えてみよう。


 以上のように静と動とを巧妙に対照させ、巧みにクライマックスを作りあげている。またこの静と動との巧妙な変化が、次に述べる夢幻と現実の結びつきとあいまって、読者の心に興味を呼び起し、テーマの固苦しさをゆるめて、退屈でないようにしている。
 次に平安時代的夢幻境と、現実との結びつきを中心にして、文の描写を考えてみよう。全体的にみて、この「羅生門」は、平安時代的夢幻境の色彩をはでに出しているが、ところどころ、しっかりと現実感を出してしめている。
a 最初の、羅生門付近の情景の描写及び下人についての説明・描写は、読者に、平安時代的夢幻境に没入する心の準備をさせている。この部分でおもしろいところは、冒頭の羅生門の描写のなかで、芥川が、大きな、ところどころ丹塗りのはげた円柱に、こおろぎを、一匹とまらせた点である。この場合、その柱の上に、こおろぎを、しかもたった一匹とまらせたことは非常に成功している。この一匹のこおろぎによって、周囲の荒廃した状景は、きわめて明白に表わされているし、さらに、この円柱の上の一匹のこおろぎは、それから後に発展するこの物語を暗示しており、非常に効果的である。また二二八ページの、下人の描写で、現代でも共通する事実、生活難(?)等、をあげることによって、作品の親近性を強めている。
b 羅生門楼上の場面は、全く夢幻境の独壇上《ママ》である。荒廃した羅生門という絶好な背景のなかで、さるのような老婆、死人の頭髪、たいまつの黄色い光等々を自由に駆使して、無気味な夢の世界を作りだしている。ただ、このような夢幻境にあつて、人間のエゴイズムだけは、悪を働いても、生きようという考えのもとに、しつかりと現実をささえている。
c そして最後に「下人のゆくえは、だれも知らない。」で、みごとにまとめあげている。
 なお、芥川が、”にきび”を夢幻感と現実感との両方の背景に使用しているのはおもしろい。すなわち、二二七ページで、にきびを気にしながら、ぼんやり、雨の降るのを眺めているところと、二三六ページのにきびを気にしながら老婆の話を聞いているところは、下人を生きた人間とするのに役立ち、現実感を深めているが、二三〇ページの下人が羅生門の階段をのぼるところでは、黄色な光に照らされた、赤く膿を持ったにきびは、グロテスクな感を出しており、夢幻境を作り上げる要素となっている。
ー「文章講座」ー「実用文の理論と方法」によるー

 よいレポート  吉 田 精 一

 「羅生門について」は、高等学校の学生としてはきわめてすぐれたレポートである。主として作品に即して、その内面的意味をくみあげ、美的価値を認識することを主眼としている。
 この論文では非常に原文をていねいに読み、構成や技術をこまかく調べているところがよい。また、人間性の解釈も中に深いところをついている。
 ただ、参考資料をあげていないことが惜しい。「羅生門のテーマは普通エゴイズムであるといわれている。」というのが、その「普通いわれている。」のは、だれがどこでいっているか、こういうためには、そういう書物を見ていなければならないのだから、それをあげるべきである。また最後のにきびのこの作品における生かしかたも、前に評論でふれているものがあるのだから(この論者はいくぶんそれと違ったみかたをしているけれども)それをひくのが礼儀である。もっとも、この交の筆者はその点では気がつかなかったのかも知れない。それならば、ひかぬのも無理はない。
 こういう態度でめんみつに作品を見ることは、文学の鑑賞及び分析の上に非常に必要なことである。その細かな注意力はこの文章のいたる所に現われているので、それは読者がよく味わつてみられたい。ただ技巧とか構成とかいうことは、作者の精神や情熱や主題と離れてあり得ない。便宜上はなして考える場合にも、常にこの両面をにらみ、連絡させて考えなければならない。それが今日の文学批評や鑑賞の態度である。技巧の批評が、単なる技巧の批評に終らぬように心がけなければならない。
 さていっぱんによいレポートとは、最小限度どのような条件を備えていなければならないだろうか。
① レポートは人に見せるもの、=これはわかりきったことのようである。ところが、実際は案外わかつていないらしい。何を、どんな意図で調べようとしたのか、まるでわからないものがある。私は教師をしているので、よくそういう場合に出あうが、支離滅裂、われわれを神経衰弱にさせるようなもの、ひどいのになると、何か悪意があるのではないかと思わせるもの、そうかと思うと、書きなぐったようなものなど、さまざまな教師泣かせのものが多い。レポートは人に見せるものである。それはだれにも理解しやすいものでなければならない。もちろん内容そのものがむずかしくなることはあろう。それはやむを得ないことである。しかし、むずかしいことをやさしく理解できるようにすることが、研究の大きな目的であるはずだ。わかりにくいものにはどこかにうそがある。それくらいに思っていてよろしい。また人に見せるものである以上、それだけのエチケツトも必要である。
② 誠実でなければならない。いやしくもレポートを書いて提出する以上、そこにはすこしのうそもあってはならない。もちろん、結論がまちがつていて、結果から見てうそになることもあろう。しかし、まじめに、一心に問題にぶつかった場合には、それは許されるのである。つまり、レポートを書こうとする態度、問題にぶつかる態度の問題である。たとえば、参考書を剽窃したり、資料の孫引きをしたり、ダイジェスト版をでっちあげるなど、一口でいえば、他人の意見を自分の意見らしく見せかけようとするもの、また自己の結論のつごうのよいように資料をゆがめたと思われるものなどの類は、もっともいとわしい。しかも、このようなレポートもきわめて多い。これらは読む者に不快の念を与えるのはもちろん、どこかレポートとしての力、迫力を欠くのである。また態度の誠実いかんは、レポートのエチケツトの上にもあらわれるものである。
 ③ 新しさが望ましい。=せつかくのレポートであれば、いままでの研究にはない新しさがほしい。処女地を切り開くことは、自分にも他人にも価値のあることである。また処女地の開拓はいい知れぬ喜びを伴なうものだ、その意味で、まず考えられるのは、題材の新しさである。しかし、この場合、いたずらに題材の新奇さに安住してはならない。新しい題材の研究を、誠実な態度、着実な方法によって裏打ちしなければならない。
 新しさにはまた他の一面がある。研究し尽くされたような題目であっても、その取り扱いかた、見かたの角度が、今までにないものであれば、結論は同じになっても、やはり新しさを持つ。たとえば、源氏の作者が女性であることを、従来は主として内容の分析、記録の類から断定してきた、しかし、いまその結論を源氏の文体の綿密な分析によって、文章心理学的に導き出したとすれば、これは非常に新しい研究といえる。(源氏の場合は必ずしもないわけではない。)また見かたが異なれば、結論もしばしば異なるものである。
      ー「レポートの書き方」によるー

 吉田精一 よしだせいいち(一九〇八ー)国文学者、東京都の生まれ、東大国文科卒、東京教育大教授、近代日本文学の研究で知られている。著書には「近代日本浪漫主義研究」「日本文芸学論考」「日本文芸新史」「日本近代詩鑑賞」「明治大正文学史」「芥川龍之介の芸術と生涯」「新日本文学史序説」などがある。

   (以上教科書図書館蔵書より抜粋、傍線は筆者)
 
 吉田氏が言うように、かなり優秀な高校生である。明治書院以外に、ほぼ同時期に、中央図書の「高等学校国語総合一(改訂版)」(昭和三五年〜三七年)にもこの生徒の文章が採録されている。中央図書の指導書によると、
この文章は、吉田精一、黒川純一、沼野井春雄共著「レポートの書き方」(学生教養新書・昭和二十七年二月二〇日至文堂刊)の「レポートの書き方(文学系統)第七章実例」のうち五〇ページ九行目から五七ページ一行目までによった。この書は(文学系統)と(一般社会系統)と(自然科学系)の三部の「レポートの書き方」からなり、(文学系統)を吉田精一氏が書いている。
としている。明治書院版では高校生の作品を「文章講座」の「実用文の理論と方法」から引用したとしている。後述する国会図書館からのレファレンスでも「文章講座」河出書房1955年(昭和三〇年)に見えると確認が取れている。

次の項では右の文について考えてみる。