第二章 主題
一 初期芥川作品におけるテーマ
古くから言われているエゴイズム論について考えてみよう。エゴイズムの定義であるが、「自分の利益だけを考え、他人のことを省みないこと。自己本位。わがまま。利己主義」(日本国語大辞典・小学館)である。それから言えば、下人の行動はエゴイズムの発露と言えよう。先行する『金色夜叉』『舞姫』『こころ』はエゴイズムの生む不幸を描いている。多くは他者から指摘を受け、または、指摘を受けるのではないかと、自分のエゴイズムを恥じるというのが、普通である。それを、人の話で自らのエゴイズムを肯定するというのは、へそ曲がりの芥川らしいと言えなくもないが、そのようなエゴイズムの肯定は、軽率にすぎないか。
さて、芥川は、他の作品でエゴイズムをどのように扱っているのであろうか。次の資料3は、前出の初期作品から、テーマを分類し、要約と抜粋を付け加えたものである。
資料3
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作品名 |
皮肉な結果 |
人の心の二面性 |
死 |
利己心 |
主人公の執着対象 |
要約と抜粋 |
1 |
バルタザアル |
○ |
○ |
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△ |
一人の女性 |
王バルタザアルは、シバの女王バルキスに気に入られようと、彼女のこわがりたいという望みを満たすために、女王の要求する通り乞食の姿で市に出て、盗人と会い、瀕死の重傷を負う。自分が人事不省の間に、女王がコマギイナの王に心を許したことを知り、絶望したバルタザアルは魔法使いになろうと旅立つ。女王はコマギイナ王を捨て、バルタザアルを愛していると言って泣く。懊悩するバルタザアルに星の導きがある。他の二人の賢人とともに聖なる幼子の誕生を見るのである。「世の中には解釈出来ぬことが沢山ある。」 |
2 |
老年 |
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一生を恋と放蕩と遊芸に費やした老人が、一人、猫相手になまめいた語を口説く。 |
3 |
春の心臓
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○ |
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○ |
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不老不死 |
老僧は永遠の若さを手に入れるために、断食をしていた。精霊はその日が明日来ることを告げるが、翌朝老僧は死んでいた。 |
4 |
青年と死
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○ |
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○ |
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生 |
死は、生きたいと言う若者の命を奪い、命を取り苦しみを助けてくれという若者を生かす。「お前は己(死)を避けようとして反って己を招いたのだ。」「お前の命を助けたのはお前が己を忘れなかったからだ。」 |
5 |
クラリモンド |
○ |
○ |
○ |
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一人の女性 |
六十六歳の僧侶の昔の恋の独白。ロミュアルは受位式の日、教会で見た美しい女クラリモンドに心を奪われる。夜ごと夢の中に現れる彼女と幸せな時間を過ごす。ロミュアルは次第に夢と現実が分けられなくなっていく。僧院長セラピオンはロミュアルを伴い、クラリモンドの墓をあばき聖水をかける。彼女は塵土となり消える。「なぜあの愚かな牧師の言うことをきいたの?仕合わせじゃなかって?」という彼女の最後の言葉は、正しかった。 「彼女は天使か、さもなくば悪魔である。そして恐らくは又両方であったらしい。」「いはば、わしの内に二人の人がゐて、それが互いに知らずにゐるのである。」 |
6 |
ひょっとこ |
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○ |
○ |
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酒を飲んで陽気に踊る自分と、しらふのおとなしい自分とどちらが本当か、平吉にはわからない。舟の上で踊っていて、脳溢血で死んだ平吉から、ひょっとこの面をはずすと、いつもの平吉の顔ではなかった。 |
7 |
○ |
○ |
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? |
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8 |
鼻 |
○ |
○ |
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△ |
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禅智内供は鼻が長いことで自尊心を傷つけられていた。ある時、弟子の勧めで鼻を短くする法を試みた。鼻が短くなると、周りのものは露骨に哂うようになった。傍観者の利己主義に内供は気づき不快になり、鼻が短くなったのが恨めしくなる。ある夜、鼻は元の長さに戻る。こうなれば、誰も哂うものはないにちがいない、と内供ははればれとして思う。 |
9 |
孤独地獄 |
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○ |
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母から聞いた話だが、大叔父が吉原で僧侶禅超と近づきになった。禅超は、「地獄にもさまざまあるが、孤独地獄だけはどこにでも現れる。昔は苦しみながらも、死ぬのは嫌だったが、今では・・」と言ったという。「自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人である。」と文は終わる。 |
10 |
父 |
○ |
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○ |
△ |
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あだなを作る名人能勢が友人と修学旅行の汽車待ちをしていた。たまたま能勢の父がいた。それを知らない友人は能勢にあだ名を付けさす。自分が「あれは能勢の父だぜ。」と言おうとした時、「ロンドン乞食」と能勢は言い、友人は適評だと、能勢の父と知らずにさらにけなした。能勢は卒業後直ぐ物故し、自分は「君、父母に孝に」と悼辞を読んだ。 |
11 |
虱 |
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虱 |
長州征伐に行く船の中で、虱を体に飼う派と、食べる派で刃傷沙汰にもなりそうなけんかをする。 |
12 |
酒虫 |
○ |
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○ |
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酒 |
酒の好きな男が、僧に酒虫がいると言われ、治療し体外に追い出したところ、健康を害し、家は没落した。 |
13 |
仙人 |
○ |
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○ |
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ねずみに芸をさせる貧しい男が、より貧しいと思われる道士に同情の念を持った。道士はそれを見透かし、金銀を撒き始める。「仙人はしかず、凡人の死苦あるに。」「ほんとうは、鼠がおれにこんな商売をさせて、食っているのかも知れない。」 |
14 |
○ |
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△ |
五位は、芋粥を飽きるほど飲むのが唯一の欲望である。それを知った利仁は自分がかなえてやろうと言う。利仁は五位を加茂川から越前敦賀まで連れて行く。朝起きると、庭に、二三千本の芋と、二千升分の鍋が並べられている。利仁は、遠慮するなと次々に椀を童たちに勧めさせる。五位は口をつける前から既に満腹である。「芋粥に飽きたいという欲望をただ一人大事に守っていた、幸福な彼」をなつかしく心の中でふり返る。 |
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15 |
手巾 |
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○ |
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長谷川教授の教え子の母が、我が子の死を報告に来る。母が微笑んでいるのが、長谷川には不思議だったが、膝の上のハンカチが震えているのに気づき感動する。武士道を見た思いであったが、その夜偶然開いた本に、ストリントベルクが指弾すべき演出法として同じ状況を挙げているのを見つける。 |
初期の芥川の作品を見ると、「エゴイズム」という言葉もなければ、自分の利益を中心に考えて他人が不利益を受ける話が、ほとんどないのである。何かに執着していても、ひきかえに他者を不幸にしている話が全くない。唯一『鼻』で「利己主義」という言葉を使っているが、ここではどんな利益を得たのか。
「誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥《おとしい》れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。」(『鼻』)
これを「傍観者の利己主義」と芥川は呼んでいる。が、これは利己主義というより、わがまま、気まぐれに近い気がする。『鼻』のすばらしさは、夜明けとともに始まるであろう哄笑に気づきもせず、無邪気に「もう嗤うものはない」という内供の台詞で終えたところにある。無責任な第三者による不幸の無限ループに陥るところに、中心がある。
また、自分の感じたまま行動に移すことで人を傷つけることをエゴイズムと定義するのであれば、『バルタザアル』のバルキス、『鼻』の僧俗たち、『芋粥』の利仁、『羅生門』の下人はエゴイストであろう。ところが被害者内供と五位は読者が気の毒に思うように描かれているが、老婆に対してはそうではない。老婆に感情移入できるほど老婆は描き込まれていない。なぜなのか。
『羅生門』には「舞姫」エリスのパラノイヤや、『羅生門』の半年前に完結した『こころ』のKの自死をめぐるエゴイズムの描写とは全く違うものを感じる。他作品は関係ない、『羅生門』の主題を問題にしているのだと言われるかも知れない。しかし私は、『羅生門』の中心にエゴイズムを置くことに違和感を感じるのだ。
二 吉田精一の「エゴイズム」論
「エゴイズム」論はどこから出てきたのか。『羅生門』の主題に関して、昭和一七年に吉田精一は「エゴイズム」の言葉を使った。
「死人も生活のために悪を冒した女であり、老婆も生きるがために、やむなく死人の髪を抜いて鬘を作るのだと聞いて、彼も亦決然として引剝ぎになって、老婆の着衣を剥ぎ取る。この下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいているものである。思うに彼が自らの恋愛に当たって痛切に体験した、養父母や彼自身のエゴイズムの醜さと、醜いながらも、生きんがためにはそれが如何ともすることができない事実であるという実感が、この作をなした動機の一部であったに相違ない。もし理想主義の作家であったならば、‥(略)‥しかし龍之介は却って、熱烈な正義感に駆られるかと思うと、やがて冷たいエゴイズムにとらわれる。善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿を、そこに見た。正義感とエゴイズムの葛藤のうちに、そのような人間の生き方がありとし、そこから下人にエゴイズムの合理性を自覚せしめている。」(『芥川龍之介』三省堂)
吉田の言う「自らの恋愛」 とは、芥川の書簡中の、
「ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐることを知つた (略)その女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかつた (略)その約婚も極大体の話が運んだにすぎないことを知つた。僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふためにあるところで会ふ約束をした (略)しかし手紙だけからでも僕の決心を促すための力は与へられた 家のものにその話を持ち出した そして烈しい反対を受けた 伯母が夜通し泣いた 僕も夜通し泣いた あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思いきると云つた (略)二週間ほどたつて女から手紙が来た 唯幸福を祈つてゐると云ふのである」(大正四・二・二八、井川恭宛)
「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁を渡ることは出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない 周囲は醜い 自分も醜い そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのままに生きることを強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ 僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ」(大正四・三・九、井川恭宛)
「僕は霧を開いて新しいものを見たやうな気がする しかし不幸にしてその新しい国には醜いものばかりであつた 僕はその醜いものを祝福する その醜さの故に僕は持つてゐる、そして人の持つてゐる美しいものを更によく知ることが出来たからである」(大正四・三・一二)
を指すのであろうか。
芥川には失礼だが、好きだとも意識していなかった幼なじみの婚約が決まったからといって、急に惜しくなって、婚約を申し込み、親代わりの伯母を困らせて、一日泣いたぐらいであきらめるとは何事だ、それで、愛だこうだ、周囲は醜いなんて、甘い、と言いたい。しかも、二ヶ月後には「僕のすきな人が一人あるんです 名前も所もしらない人なんですがもうどこかの奥さんなんでせう」(大正四・五・二)と立ち直りの早さを示している。唖然として、好きなようになさい、と言いたくなる。まさに下人も真っ青の心変わりの早さである。
ただ、こうした芥川の実恋愛への淡泊さ幼さがあるとしても、本人にとってつらい経験だったことは認める。それは失恋ではなく、彼の心にいつのまにか住み始めていた生存苦を追認させる経験だったからだ。伯母を始めとする周囲の反対、恋する相手の結婚、自分のことを誰もわかってくれないという思いは『孤独地獄』の「自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人である」という告白になるのはわかる。
問題は、百歩譲って、吉田が言うように、芥川が愛におけるエゴイズムを感じたならば、『羅生門』にどのような形でそれが反映されているのかということだ。それがないなら吉田の論は意味がない。愛のエゴイズムを「食べるために盗人になればよい」とどう結びつけるのか。むしろ「恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状とかけ離れた、なる可く愉快な小説が書きたかつた。」(『あの頃の自分のこと』大正八)を素直に受け入れるほうが良い。
また、下人がエゴイズムの合理性を自覚したという吉田の分析に対しては、手紙では「しかも人はそのままに生きることを強ひられる」と、不合理の中で苦しみながら生きるしかないと芥川が言っていることと矛盾していることを指摘したい。さらに、そうしたエゴイズムを描く時、第一章で見たように、おどけた言葉遣いをするだろうか。私は疑問である。
山崎正和が兵庫教育大学での講演会で「部分を見て全体は語れないが、全体を見て部分は語れる」と言うのを私は聞いた。エゴイズム論は、下人の「おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」という部分を見て、全体を語ろうとしているのではないか。そうではなく全体を見て部分を語るべきだ。
『羅生門』はこう終わる。「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである」下人の先には、闇しかない。下人の未来が決して明るくないことを示している。すると仮にエゴイズムを下人は肯定したとしても、筆者の結論としてエゴイズムを肯定するのか、否定するのか、という問題が再び浮上する。エゴイズムを肯定しているとは言い切れないのだ。
失恋が『羅生門』に反映しているということの論証が吉田精一にはないまま、『羅生門』エゴイズム論が主流となる。その後も、芥川がエゴイズムを肯定しているか否定しているかの論争はあっても、エゴイズムがテーマになっているということ自体を否定する考えは長年主流たりえなかった。吉田が『芥川龍之介』を著したのは、34歳の時である。彼はこの後、日本近代文学界の中心となり、全二五巻別巻二巻の圧倒的文量を誇る著作集を残している。私が使った教科書には吉田精一監修のものがあったと記憶している。当然エゴイズム論として指導書は書かれていた。
現在ネットを使い「羅生門エゴイズム」で検索すると、2020/07/07付で「【定期テスト対策】羅生門からエゴイズムを考える。」というのを見つけた。また、なぜエゴイズムになるのかを尋ねる書き込みや、それに対するエゴイズムを前提とした分析や、吉田論を基にした説明が多数見られる。また、NHK高校講座第38回 羅生門 (4) (芥川龍之介)では
Q3 この作品のテーマとして適当なものを次から選びなさい。
○世の中の不平等さ
○人間の心の弱さとエゴイズム
○人間の生命力のたくましさ
というのがあった。
私ははっきり言って、「生きるためにはしかたがない」というエゴイズム主題論は間違いだと言いたくてこの稿を書いている。
むしろ、吉田精一の言葉の中では、「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿」にこそ、一つの主題として私は同意したい。資料3を見ていただければわかるように、人格の二面性は、初期芥川作品の五作においてはっきりと描かれているからである。いずれの人格が本来の姿なのか、分かちがたく混然と内在する、というものである。
下人の盗みに対する心の変化を辿ると、以下のように、極端から極端に振れている。
盗みに対する下人の心の変化
否定 肯定
門の下で途方に暮れる
老婆が死人の髪の毛を抜くのを見る
老婆を捕まえる
老婆の言葉を聞く
老婆の着物を剥ぐ
しかし、「善にも悪にも徹底しえない不安定な人間の姿」を以て『羅生門』の主題とするにはまだ不服である。なぜなら、『羅生門』の魅力は別にあるからである。次回は羅生門の魅力について述べたい。